連載 ■ 科学史 第5回
科学史・技術史研究の先駆者 ― 李容泰と金承源の業績 ―
任 正爀
今年2020年は朝鮮が日本の植民地となったいわゆる「韓日併合」から110年に当たる年である。けれども大きな話題となってはいない。ちょうど、10年前が100年という大きな節目の年で、各種討論会やシンポジウムなどが開催されたので一段落しているということかもしれない。その時には様々な問題について議論されたのだが、現在までの推移をみれば日本の植民地過去清算問題はそれほど大きな変化があったとは思われない。
さて、これまで植民地時代に苦学をしながら高い知識を身につけ、解放後に活躍した朝鮮を代表する学者たちを紹介してきた。今回は朝鮮民主主義人民共和国(以下、共和国)を代表する二人の科学史・技術史研究者を紹介したい。
普通いうところの科学技術は「近代科学」の延長線上にあり、それは西洋に芽生えた文明の一つである。「文明とは知識で文化とは知恵である」とある人は言ったらしいが、確かに今日の核の脅威や環境破壊は文化の域に達していない科学技術の欠点を露呈したものといえる。もっとも、それは科学技術それ自体が悪いのではなく、それを行使する社会と人間の方に問題がある。
解放直後、朝鮮の自主独立国家建設のための課題の一つは、植民地時代に踏みにじられた民族文化の再生であった。科学技術分野でいえば、朝鮮古来の科学技術遺産を継承発展させ、近代科学との融合を果たさなければならない。そのために重要となるのが科学史・技術史研究であることは明白であるが、共和国で先駆的な役割を果たした人が李容泰と金承源である。
朝鮮科学史の三大古典
朝鮮科学史研究は1944年に日本の三省堂から出版された洪以燮『朝鮮科学史』からはじまる。三省堂といえば英語辞典で有名であるが、そのような出版社から植民地解放一年前にこのような本が出版されていたことを意外に思う人も多いのではないだろうか。後に知ったことであるが、この本は『朝光』という雑誌に1942年6月から43年3月号まで連載された古朝鮮から高麗時代までと、その後に書き下ろした朝鮮王朝時代までを一冊にまとめたものであった。
『朝光』は民衆啓蒙と民族思想の鼓吹を目的として、1935年から1944年12月まで発行された総合雑誌である。今の日本でいう『世界』のような雑誌で、社会文化的記事や文学、さらには自然科学的内容までも網羅した、植民地支配下で民族文化を守り、その発展を願う人々の息吹が感じられる雑誌である。しかし、それも1941年以降は当局の検閲が厳しくなったのか、日本語の御用記事が多くなる。そんななかにあって、洪以燮の連載記事は異彩を放つ。

【図1】『朝鮮科学史』(ハングル版)
社会科学の多くの分野は植民地時代に日本の学者たちが先鞭をつけており、植民地史観によるものが多かった。そんななかで洪以燮の研究を嚆矢とする朝鮮科学史はそのような弊害を免れた。
解放直後の1946年にはハングル改訂版も出版されているが、筆者の本棚には1949年の再版がある。貴重な本といえるが、大阪にある日之出書房で入手したものである。価格は三千円で、筆者にとっては掘り出し物であった。ちなみに、当時日之出書房は朝鮮関係ではおそらく日本一の古書店であったが、現在は縮小したようである。

【図2】『韓国科学技術史』
洪以燮は自身には自然科学の素養がないとして、それ以上は追究しなかったが、その任を果たされたのがソウル大学で化学を学ばれた全相運先生である。1966年に出版された『韓国科学技術史』で、これ以降に韓国では研究が盛んになった。1974年に英語版がMITプレスから、1978年には京都大学の博士論文を基にした日本語版が高麗書林から出版されている。
全相運先生によるこれらの著書は研究を促進させただけでなく、英語版・日本語版によって世界に朝鮮科学史を紹介する上で大きな役割を果たした。朝鮮科学史研究の第一人者として精力的な活動を行ったが、2018年に他界された。著書を送って頂くなど日本において朝鮮科学史研究を行う筆者を温かく見守っていただいたが、そのご縁で2018年4月に刊行された『韓国科学史学会誌』「全相運先生追慕特集号」に一文を寄せた。
『韓国科学技術史』の出版は『朝鮮科学史』から約20年が経っているが、ちょうどその間の1956-57年に共和国では李容泰編『わが先祖の誇り―科学と技術のはなし』全二巻が出版されている。天文学、医学、建築をはじめ朝鮮の誇るべき科学技術について、それぞれの分野の専門家が青少年に向けて解説したものである。当時の各分野の第一人者たちが執筆したもので、今日までその価値を失っていない。

【図3】『わが先祖の誇り』
筆者の専攻は物理学であるが、ある時、朝鮮には物理学者はいなかったのか?という問いが頭をよぎった。もちろん、ここでいう物理学とは厳密な意味ではなく、物理的理論あるいは技術のことである。ところが、その時まで筆者は朝鮮科学史についてまったく知らなかった。そこで、まずは関連する本を読もうと大学の図書館を探したところ、見つけたのがこの『わが先祖の誇り』である。入門書とはいえその中身の濃さに感心し、広範な人たちにも知ってほしいという気持ちから翻訳出版したのが、『朝鮮の科学と技術』(明石書店、1993)である。
私事だが、その本で出会ったのが実学者として知られる洪大容であり、彼の地転説および無限宇宙論であった。今から30年ほど前の事であるが、以後、洪大容の無限宇宙論はどのような伝統のもとで成立し、そこに洪大容が持ち込んだ新しい考えとはどのようなものなのか、さらにそれは朝鮮および世界の宇宙論発展史においてどのような意味を持つのか、という問題を追究してきた。そして、洪大容生誕280周年となる2011年に、その研究成果をまとめた『朝鮮科学史における近世―洪大容・カント・志筑忠雄の自然哲学的宇宙論』を思文閣出版から上梓することができた。
朝鮮科学史研究のスタートとなった洪以燮『朝鮮科学史』、もっとも優れた李容泰編『我が先祖の誇り』、そして研究を本格化させた全相運『韓国科学技術史』、その果たした役割に敬意を表し、筆者は朝鮮科学史の三大古典と呼んでいる。
李容泰の業績
李容泰は1945年に京城帝大理工学部物理学科を卒業、解放直後には京城大学助手を務めていた。その後、金日成総合大学が創設される頃に北に移り、物理数学部の教員となった。1947年から51年まで旧ソ連のレニングラード大学に留学、「電磁気学発展におけるロシア物理学者たちの業績」という論文で学士を授与されている。ここでの学士とは大学卒業生に対するものではなく、大学院の修士あるいは博士に相当する。おそらく南北朝鮮を通じての初めての本格的な科学史関係の研究論文といえるものである。
1951年11月に帰国し52年9月まで疎開していた金日成総合大学の物理数学部長を務め、その後教育省高等教育科学研究部長、国家学位授与委員会書紀などを歴任した。朝鮮戦争後は、もっぱら理科教育に携わり、『児童科学(1) ・面白い問題と実験』『児童科学(3) ・幼い科学者の課外作業』という参考書や「天文学の授業にわが国の遺産を導入することについての意見」、「中学校の物理学実験器具製作」、「メンデレフの業績と世界観」などの解説記事を書いている。
そして、1956~57年に編著者として共和国で初めての朝鮮科学史書籍といえる『我が先祖の誇り』を出版している。当時は朝鮮戦争後の復旧建設にすべての力を投入していた時期であり、このような本が出版されたのにはそれなりの訳がある。それは優れた民族文化の伝統を確認し、それを継承発展させる担い手となる青少年の育成を目的としたものである。同時にそれは、よりよい祖国の明日を築くべく彼らへのメッセージでもある。そんな積極的な意図は執筆者の人選にも窺えて、洪起文、金炳済、金錫享をはじめ、みなその分野の第一人者ともいえる人たちである。
1961年から科学院哲学研究所に籍を置き、「茶山丁若鏞の自然科学思想」、「燕岩朴趾源の自然観」など、実学者の自然科学思想に関する論文を多数発表している。なかでも「茶山丁若鏞の自然科学思想」は、『丁茶山生誕200周年記念論文集』(1962)に収録されたものであるが、そこでは金錫亨が丁茶山の生涯と活動、朴時亨が歴史思想、鄭鎖石が哲学思想、金洸鎮が経済思想を執筆するなど、当時としては最高水準の論文集である。丁茶山は実学の大成としての評価が定まっているが、その李容泰の論文は、筆者が知る限りでは丁茶山の科学技術的業績についての初めての研究論文である。
現在、朝鮮実学研究は非常に盛んであるが、まだまだ科学技術に閲する研究は少ない。そんななかで、李容泰が実学派の自然科学思想に初めて焦点を当てたことは高く評価される。東洋で実学が盛行していた頃、西洋では近代科学が構築されており、両者の比較検討は伝統科学と近代科学の融合を考える上でも重要な課題である。
さらに、李容泰は1963年に出版された歴史研究所編『朝鮮文化史』の科学の項目を執筆している。丁茶山の論文集や『朝鮮文化史』への執筆から、この頃にはやはり李容泰がこの分野の第一人者であることが学界でも認められていたことがわかる。

【図4】『ウリナラ中世科学技術史』
残念ながら、70年代から80年代にかけての彼の活動についてはほとんど知られていないが、その存在を改めて印象づけたのは1990年に出版された『ウリナラ中世科学技術史』である。題名にある「中世」という言葉は、そこでは封建時代と同意語で用いられて、紀元前三世紀の三国時代から一九世紀前半までを含み、実質的に朝鮮科学史のほとんどを網細している。
この本を手にして著者の名前を見た時、1956年の『わが先祖の誇り』から始まって一貫して科学史を追究してきた著者の姿に思わず胸が熱くなったことを憶えている。ただ、この本には気になるところがあって、著者の「まえがき」の代わりに編集部からの「まえがき」があり、内容も19世紀前半までで終わっている。絶筆ではと思ったのだが、その後1984年に他界されたことを知らされた。
もともと、その原稿は1979年~82年に刊行された『朝鮮全史』全三五巻の科学技術に関するもので、それを整理し一冊にまとめたものが『ウリナラ中世科学技術史』である。ところが、それを終える前に李容泰は他界、遺族が残された原稿を出版社に持ち込んだのである。『ウリナラ中世科学技術史』が完成されなかったことは残念ではあるが、それでもその本の価値を損なうものではない。実際、この本は韓国でも翻刻出版されている。この分野の基礎を築き、それをリードしてきた李容泰の研究は、科学史が南北朝鮮の共同研究として行われるようになった時、いっそう価値を高めるだろう。
金承源の業績
李容泰の研究は「科学史」的性格が強いが、「技術史」で重要な研究を行った人が金承源である。彼は李容泰が編者となった『わが先祖の誇り』で「各種機械」という章を執筆し、また『朝鮮文化史』でも技術の項目を担当している。さらに、1963~64年の『朝鮮技術発展史資料集』の出版においても中心的な役割を果たしている。
解放当時17歳の少年であった金承源はボイラー技術者を志し、平壌工業大学(現・金策工業総合大学)に学ぶ。22歳の頃から、朝鮮古来の技術発展に興味を持ち、国立中央図書館(現・人民大学習堂)などで資料を集め始めた。そして、大学のセミナーで「15~16世紀の朝鮮の技術発展」という発表を行い、大きな反響を巻き起こす。その後、大学教員となった彼は熱工学を専攻しながら、技術史の研究を深める。
大学では、金承源を助けるために研究グループを組織し、古文献から船舶、生産器械、観測器具、武器、活字、印制技術、鉱業技術に関する記録を集め、その工学的分析を行った。このようにして完成したのが、『朝鮮技術発展史資料集』である。資料集となっているのは、その概観と技術工学的分析とともに、発展過程を明らかにする資料を古文献から収集・整理しているからである。構成は第1集「船舶関係」、第2集「生産器械、観測器具、武器その他」、第3集「活字、印刷」、第4集「鉱業技術」である。
この資料集のために金承源は数年問、国立中央図書館に通いつめたが、当初、図書館員は彼の専門は歴史とばかり思っていた。そんな彼に、図書館員は丹斎・申采浩の未整理の原稿を見せた。それは申采浩が一時下宿していた家の主人が寄贈したもので、彼が書いた小説であった。
申采浩は朝鮮の独立運動家として、さらに植民地時代に「民族史学」を樹立した歴史家として高く評価されている人物で、1928年に台湾で日本の警察に逮捕され36年旅順刑務所で獄死した。原稿は筆やぺンで書かれて消された箇所も多く、また頁も前後しており整理するのはかなり困難な作業と思われた。
しかし、金承源は朝鮮史にその名を残す偉人の遺稿でもあり、自身の手で整理して清書しようと決心する。2年後、やっと清書を終えたと思った時、帖本のように閉じられた原稿の裏にも文章が書かれているのを見つけた。広げてみると『百歳老僧の美人談』という題目が現れた。そして、その他の原稿もすべて広げてみた。間違いなく一つの小説であった。再び、その頁を揃えて清書して、数カ月後にすべての作業を終えた。『龍と龍との大激戦』、『夢天』など、今日われわれが読むことができる申采浩の小説は、このようにして陽の目を見たのである。
しかし、残念ながら1966年に出版された『申采浩小説集・龍と龍との大激戦』には編者が国立中央図書館民族古典部となっており、また1977年にソウルで出版された『申采浩全集・別集』でもいくつかの小説が収録され、解題には国内初の紹介と書かれているが底本について何の言及もない。もっとも、金承源自身は個人の名誉のために行ったのではく、あくまでも貴重な民族文化遺産を伝えようという思いによる。
他方、彼は熱工学の専門家として、とくに現場で労働者とともにボイラーの保守整備のために汗を流す信頼すべき学者として知られていた。少年期に解放の喜びを享受した彼にとっては、民族文化遺産の発掘整理も現場が提起する科学技術的問題の解決も等しく重要かつ夢のある仕事だったのだろう。
前述の『朝鮮技術発展史資料集』であるが、全4集が予定されたが第2集は刊行されなかった。というのも、当時、歴史研究における封建時代の出来事を無条件に評価する復古主義的傾向が指摘され、数多くの書籍が批判されたのだが、『朝鮮技術発展史資料集』もその対象となったのである。ところが、1990年頃、この書籍の存在を知った金正日総書記がその批判は的はずれであり、改めて当時の研究者を含めて関連分野の研究者を集め、技術史を集大成する課題を提示した。そうして完成したのが、93~95年にかけて出版された『朝鮮技術発展史』である。

【図5】『朝鮮技術発展史』
このエピソードは2004年に平壌で開催された「第二回朝鮮学世界大会」に参加した際に筆頭執筆者である崔尚浚先生とお会いする機会があり、直接、お聞きしたものである。先生の専門は金属工学で、古朝鮮の青銅が亜鉛を含む独自的なものであることをはじめて明らかにしたのも彼である。『考古民俗学』1966年第3号に掲載された「わが国原始時代および古代の金属片遺物分析」がそれである。『韓国科学技術史』の著者である全相運先生は、ハーバード大学燕京研究所に留学していた時にこの論文を読んで、大きな刺激を受け研究を深めたという。全相運先生とは来日された際に何度かお会いする機会があり、もし、平壌で崔尚浚先生と会うことができたら自分の挨拶を伝えてほしいといわれていたので、その時に実現することができて本当によかったと思っている。
『朝鮮技術発展史』は、古代・三国時代・高麗時代・朝鮮前期・朝鮮後期の全5巻からなる大著で、取り扱っている分野は、鉱業および金属加工、紡績・染色、建築、造船、窯業、印刷および製紙、武器製作、農業、天文気象観測で、現時点で南北朝鮮を通じてもっとも優れた技術史研究書である。文字通り朝鮮の技術史を体系化したものであるが、時に実際に実験を行いながら該当する技術を分析・検討しているところがこの本の特徴といえる。15名の研究者による共同執筆であるが、最初に崔尚浚先生の名前があり二番目に金承源の名前がある。そして、この仕事を無事に終え、他界したという。
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以上、李容泰と金承源の業績を紹介したが、彼らの研究対象は朝鮮王朝時代まで、いわば伝統科学史である。近年は解放以降の現代科学史に関する研究が盛んになってきているが、では、その間に位置する植民地時代の研究が気になる。植民地時代の科学史は大きく二つに分けられ、一つは日本の植民地政策の一環として行われた科学技術的展開である。日本人が中心となるがそれに従事した朝鮮人もそこに含まれる。もう一つはそれらとは一線を画す朝鮮のために奮闘した人たちによる科学技術である。これまで紹介してきた科学者たちはまさにそのような人たちである。今後もあまり知られることのない彼らの科学技術的業績を発掘紹介していきたいと思う。
「科学と未来」第21号に掲載