連載 ■ 科学史 第4回
50年の足跡 ─ 歴史学者・金錫亨博士の研究活動 ─
任 正爀
1990年はソ連をはじめ東欧社会主義諸国が相次いで崩壊、歴史的転換期を感じさせる年であった。その年の8月、筆者は大阪で開かれた「朝鮮学国際学術討論会」に参加していた。開会式が終わったその日の午後から分科会が始まり、初日は専門外だが歴史分科に参加した。
その会場の固定席はすでに満席で、カメラ片手の報道関係者の姿も目についた。補助席に座っていた筆者の横では、新聞記者と思われる人たちが、やはり補助席の中年女性に盛んにインタビューを行っていた。分科会が始まって、その人は私に「金錫亨は何番目ですか」と尋ねた。「一番最後ですが、何かご関係でも?」と聞いてみると「金錫亨は私の兄です。今回、日本に来ると知ってソウルから来ました」と答えてくれた。

兄妹の再開を果たす金錫亨博士

発表される金錫亨博士
朝鮮学国際学術討論会は1986年から隔年に行われ、第3回の討論会は南北朝鮮、在日および海外の研究者が一堂に会する相当規模の大きな討論会であった(この大会で国際高麗学会が結成された)。
朝鮮民主主義人民共和国(以下、共和国)からも2名の参加があったのだが、そのなかには共和国社会科学院・院長の要職にあった有名な歴史学者・金錫亨博士も含まれていた。初日の歴史分科会には博士の発表を聴こうとする人たちで埋まり、初めからある種の興奮に包まれていた。
予定された発表が進み、博士の番になった。参加者の熱烈な拍手のなか、登壇された博士は「『三国史記』に見る倭侵犯記事」という題目で用意された原稿をゆっくりと読んで行かれた。75歳の高齢とはいえ、その声は太く朗々と会場に響いた。発表後の質疑で博士の古代朝日関目係史の研究のきっかけはという質問があった。それに対して博士は、「朝鮮史を朝鮮人の歴史として捉えられるようになってから」と答えた。
日本の古代史研究に衝撃を与える
金錫亨博士の名前が日本にも知られるようになったのは1963年のことである。この年、博士は連名で「ソ連科学アカデミー編『世界史』の朝鮮関係叙述の重大な誤りについて」という批判論文を発表した。批判は古代から近代にわたるが、とくに古代の部分では日本の学者の誤った見解をうのみにした「任那日本府」の存在、すなわち古代日本の朝鮮支配を肯定したことに対して、痛列な批判を行った。
これは一つの国際論争であるが、そのためには研究の蓄積が必要であるが、はたして同じ年、博士は「三韓三国の日本列島内分国について」という論文を発表し、後にこれを体系化した『初期朝日関係研究』を出版した。
その時までの日本の通説は、「任那」は4世紀半頃から6世紀半頃までの200年間、日本が南部朝鮮にもった植民地的領域のことであり、「任那日本府」というのは大和朝廷が任那に置いた官府であるというものである。ところが博士の主張は、古代に日本が朝鮮を支配することなどはありえず、むしろ日本各地に朝鮮の三韓三国からたくさんの人たちが集団的に移住してきて分国をつくったとするもので、まさに日本の通説とは、まったく正反対のものであった。しかし、真実は一つであり、博士の研究を契機に再検討されるのである。
この分国の地理的位置であるが、出雲地方や近畿、九州まで広範囲に及ぶが、注目されるのは出雲地方である。というのも、ここには古代でもっともスケールが大きい出雲大社があり、またスサノオがヤマタノオロチを退治したという神話が伝わるからである。このヤマタノオロチの尾から出てきたのが、「三種の神器」の一つである「草薙の剣」であり、これらは日本より技術的に進んでいた古代朝鮮との関係を示唆する。しかし、それに関する詳しい研究は行なわれていないようである。というのも、以前ほどにはないにしろ日本では朝鮮の影響をできるだけ排除するという風潮があるからである。
さて、「任那日本府」は『日本書紀』にだけ記述され、朝鮮の資料には何の記述もなく、またその考古学的遺物も今まで何も発見されていない。にもかかわらず、それが日本人の常識になり、朝鮮蔑視と結び付いたのは周知の事実である。金錫亨博士の『初期朝日関係研究』は学術的意義のみならず、日本人の朝鮮観に対する反省を促した画期的な著作である。
古代朝日関係に限らず、解放前の朝鮮史研究は日本人研究者にほとんど独占され、朝鮮史は踏みにじられるだけ踏みにじられた。朝鮮社会は停滞・落伍していて自力では発展しようがなく日本と比べると朝鮮王朝末期は平安朝の段階にとどまっていたという「停滞論」、日本人と朝鮮人は同祖同根で血のつながりがあると同時に大昔から日本が朝鮮を支配していたという「日鮮同根論」、朝鮮には独自の歴史はなく朝鮮史は大陸勢力の朝鮮半島における波動にすぎないという「満鮮一体論」、朝鮮人には自力で歴史をつくる能力がなくいつも大陸あるいは日本の勢力に依存していたという「他律性史観」など、よくもまあこれだけ悪意に満ちた研究ができるものだと呆れてしまうほどである。
これは朝鮮史の歪曲というなまやさしいものではなく抹殺である。朝鮮史研究を自身の手に取り戻し、朝鮮人が文字通り主人公としての歴史を定立していく、これが歴史学者に課せられた任務であった。
歴史を愛する青年
1940年6月、『漠城夜報』に次のような記事が掲載された。「昨夜、パコダ公園基督教青年会館で開かれた弁論大会で朝鮮民族の単一性と悠久性を熱烈に論じる青年がいた。聴衆の心を揺さぶった彼は20歳前後の若い青年であった」この青年こそ、京城帝国大学法文学部史学科に在籍していた金錫亨博士であった。
博士は1915五年、慶尚北道大邸の知識人の家に生まれた。彼の父は弁護士で、息子も法学を専攻し後を嗣いで欲しいと考えていた。ところが、金錫亨博士は植民地体制下の法学に疑問を抱き、同時に通っていた大邸高等普通学校での植民地史観に基づく歴史授業に反感を覚え、真の朝鮮史を学びたいと思うようになる。大学を卒業した博士はソウルのある中学校の教鞭をとりながら歴史研究に打ち込む。
1943年のことである。京城帝大で「東洋史学術討論会」が開かれた。その時、ある日本人学者は「朝鮮史概論」という講演で、朝鮮は古代から大和朝廷の支配を受けており、従って朝鮮人の70%は大和国家の末商であると主張した。その話を聞きながら金錫亨博士は、このような荒唐無稽な話には一日も早く終止符を打たねばと決意する。これが後の『初期朝日関係研究』の直接的なきっかけとなった。
しかし、そのような博士を日帝がそのままにしておくはずがなく、「祖国と民族の歴史を研究のために頑張ったのだが、かえってそれが弾圧の対象となり、それによって欝憤の溜った日々を送った」と、手記に書いている。
解放直後は師範大学で教鞭をとりながら、『鐘の音』、『黎明史』などの雑誌を発行し論文を発表していたが、その後、金日成総合大学の教員として招聴され、歴史学者・朴時亨、言語学者・金寿卿らとともに北に向かう。金日成総合大学は1946年9月15日に7学部、教員数68名で開学するが、金錫享博士は歴史・文学部に所属し、この時から本格的研究を開始する。
常に研究の先頭に立って
1952年4月のことである。白松里に金日成主席が訪れ、教員、学生たちと談話を行い、戟後の復旧建設のビジョンとともに民族文化遺産を継承発展させる問題を強調した。その時、主席は金錫亨博士に人民軍将校に読ませる兵制史の執筆を依頼する。すぐには、返事ができなかった博士に対し主席は初めからすべての兵制史は無理だろうから、ある時期だけでもと話す。こうして誕生したのが『李朝兵制史』であり、1953年に出版された。朝鮮戦争時の資料・遺物を収集、保管する平壌の「祖国解放戦争勝利記念館」には、その時の博士の直筆の原稿が陳列されている。
博士は1956年から科学院歴史学研究所・所長の要職に就くが、57年には三国時代から朝鮮王朝時代までを封建制として取扱い日本中世史研究にも影響を与えたといわれる『朝鮮封建時代農民の階級構成』を出版している。この本は末松保和、李達憲によって日本語に訳され1960年に学習院大学東洋文化研究所から出版されている。
この本の「訳者のあとがき」で、筆者は金錫亨博士の大学卒論が朝鮮王朝初期の兵制についての研究であることを知った。末松保和は当時京城帝国大学の教員であり、博士はその学生であった。そして、その卒論の出来栄えから、『朝鮮封建時代農民の階級構成』も優れたものに違いないと思い訳したが、事実、期待にたがわぬものであったと書いている。実は、末松の代表的研究は『任那興亡史』で前述の任那通説は、彼の研究によるところ大なのだが、それがその才能を高く評価した学生によって全面的に否定されるというのも、一つのめぐりあわせだろう。
金錫亨博士は1961年に歴史学博士の学位を授与されるが、その対象となったのは、『朝鮮封建時代農民の階級構成』とその続編『両班論』である。そして、63年にソビエト科学アカデミーの『世界史』についての批判論文と、日本人学者に衝撃を与えたといわれる「三韓三国の日本列島内分国について」を発表する。65年にはそれに続くものとして「日本の『天孫降臨』神話を通してみた駕洛人の日本列島への進出」、六六年には「日本船山古墳から出土した大刀の銘文について」を発表、同じ年にそれらを総合した著書『初期朝日関係研究』を出版している。

『古代朝日関係史』の表紙
朝鮮史研究会によって訳され、『古代朝日関係史-大和政権と任那』という題目で1969年に勃草書房から出版されているが、現在まで11刷、発行部数にして1万1千部にもなる。朝鮮関係の学術書としては異例の数字といえるが、これは、その本の重要性とこの問題への関心の高さを物語るものであろう。
同じ66年には連名による「『韓国史』を論評する」という批判論文を発表する。朝鮮史の記述についての分析批判論文は先のソ連アカデミーの『世界史』に対するものがあった。そこでは、朝鮮歴史について何も知らない著書たちが日本の学者の研究をそのまま写し、時にはそれすらも満足にできなかったと辛らつな批判を行った。それでも、その著者は第三者であり我慢もできる。しかし、『韓国史』の著者たちは当事者であり、さらに日帝下の歴史研究がどのような状況にあったのかを誰よりも知った人たちではないのか。なのに、何故に日本の御用学者の説に追従しなければならないのか。分析批判は具体的に成されているが、博士たちの胸の内は怒りに似たものがあったに違いない。
しかし、この問題の真の解決のためにはその批判だけでは不十分であり、朝鮮の民族史を定立するための「全史」を一日も早く完成しなければならない。しかし、解明すべき問題もまだ多く、機はまだ熟してはいなかった。
話は、少し前後するが、1963年には金錫亨博士を中心として執筆者34名による朝鮮の文化の総合史である『朝鮮文化史』が出版されている。その内容は、各時代毎にまず概観があり、科学技術、社会思想、言語と文学、美術、音楽、舞踊、民俗などである。65年にその第二版が出版され66年に日本で翻訳されているが、この日本語版に博士は序文を寄せている。日本語版『朝鮮文化史』は上下2冊の大著であるが、図版も豊富で文化史関係の書籍で随一といえる本である。
しかし、この『朝鮮文化史』はいくつかの問題点を指摘されている。それは過去の文化遺産についてその時代的制約性を考えずに評価しているということであった。その復古主義的傾向の克服を強調するあまり、こんどはすべての民族文化遺産を否定するという偏向がでてくる。それについて歴史学研究所で慎重に検討され1972年に『民族文化遺産研究』が出版された。
この本は第一編「民族文化遺産を正しく評価し、批判的に継承発展させることに対する金日成同志の思想」と第二編「わが国の民族文化遺産の概観と評価」に分かれている。第二編では、実学、昔の名将と彼らの愛国主義、哲学、文学、音楽、舞踊、美術、科学技術、言語、古書籍、遺跡・遺物、風俗など幅広い内容で民族文化遺産を概観、評価している。これは、民族文化遺産に対する評価についての原則、基準を与えるものとなった。
高松塚古墳調査で来日
同じ1972年の3月、日本では考古学史上の大発見があった。極彩色壁画が描かれた高松塚古墳が発見されたのである。そこには四神図とともに当時の人物画が描かれていた。とくに女人画は「飛鳥美人」と呼ばれ、大きな話題となった。古墳が発見されると、何時の時代のものなのか、埋葬者はどのような人物なのかが議論される。しかし、前述のように朝鮮の影響を排除する反面、中国との関係を強調しようとする傾向は、高松塚古墳の評価をめぐっても表面化していた。そんな時、共和国から金錫亨博士を団長とする4名の学術調査団が来日したのである。

飛鳥美人の切手
調査団は9月29日から10月15日まで滞在、まずは現地調査を行ない、その後は広範な日本の文化人や学者たちとの懇談会、『朝日新聞』、『毎日新聞』、『読売新聞』やNHK主催の各種講演会、シンポジウムをこなした。金錫亨博士も史学会、日本考古協会、歴史学研究会、朝鮮研究会の共同主催による学術懇談会において「6~7世紀の朝日文化交流について」という講演を行っている。当時の状況は『朝鮮時報』が詳しく伝えているが、現在ではとても想像ができないほど活発に朝日学術交流が実現していたことを知ることができる。
さて、調査団の見解は奈良博物館で開催された高松塚総合学術調査会・全体会議において正式に発表された。そこでは、まず共和国における研究結果に基づいて高句麗壁画古墳の全体の性格を明確に示したうえで、高松塚古墳の構造と壁画の内容、表現法との比較検証を行なった。そして、結論として両者の強い関係性を強調した。
高松塚古墳が高句麗と深い関係にあることを別な角度から強く印象づけたのは日本画の大家・平山郁夫画伯である。画伯と高句麗壁画とのかかわりは1967年に遡る。その年の院展に画伯は『卑弥呼擴壁幻想』という作品を発表するが、それは邪馬台国の女王卑弥呼の墓が存在したならば、こんなイメージであろうかと想像し幻想的な世界を描いたものであった。
その際、画伯は卑弥呼の衣装を高句麗水山里古墳壁画の女性像を参考に、背景を描くときにも壁画の樹木などを念頭に置いたという。そして、その4年後に高松塚古墳壁画が発掘されるが、まさにそこに描かれていた女性像は画伯がイメージした卑弥呼と同じ服装であったのである。それは、とりも直さず水山里壁画と高松塚壁画の女性像が酷似していることを意味する。自身の絵画と壁画のトライアングルから、画伯は高句麗壁画の保存に協力しなければと強く感じたという。
そして、1997年からユネスコの親善大使として9回にわたって共和国を訪問、様々な機材を持ち込み壁画の保存状態などの調査を終えて、結果2004年7月に世界遺産に登録されることになったのである。

平山画伯による水山里壁画の模写
『朝鮮全史』への道
1972年に出版された『民族文化遺産研究』が民族文化遺産に対する評価についての原則、基準を与えるものとなったことはすでに述べた。しかし、ことはそれだけですむという性格の問題ではない。結局、それは歴史的事実についての評価と歴史をどのように記述するのかという方法論の問題であり、それは必然的に民族・人類の歴史とはいったい何なのかという根本的な問題とつながっていく。
1977年12月15日、最高人民会議に代議員として参加していた金錫亨博士は金日成主席の施政演説「人民政権をより強化しよう」の次のような内容にその答えを見出す。それは勤労人民大衆は歴史の主体であり社会発展の原動力である。人類の歴史は自主性のための勤労人民大衆の歴史であり、人民大衆の創造的活動によって歴史が発展し社会運動が進行する。自然を変革し社会を発展させるのも人民大衆であり、物質的富を創造し文化を発展させるのも人民大衆である。人民大衆を抜きにして社会があるはずがなく、人民大衆の役割がなければ歴史は発展できないというものであった。すなわち、人類史を貫通するすべての法則と階級闘争史を勤労人民大衆を中心にすえて、彼らの自主性と創造性を基本として研究体系化する、それがその答えであった。
この頃まで、共和国歴史学界ではすでに貴重な成果を多数得ていた。朝鮮の原始社会問題と朝鮮人の起源に対する問題、古朝鮮問題と奴隷制社会の問題、高句麗史についての検討、初期朝日関係史、新羅によるいわゆる三国統一についての評価、渤海史についての研究、朝鮮における資本主義関係の発生とブルジョア改革の問題などなど。そして今、人類史の本質の解明と歴史叙述の方法論を得るにいたり、朝鮮史を全面的に体系化できる準備は整った。歴史学研究所では、それまでの成巣を集大成した『朝鮮全史』の刊行にとりかかる。
1979年に始まった作業は1982年に全35巻で完成する。歴史学研究所ではそれに続いて、歴史の部門別の部門史60巻を刊行し、金錫亨博士は1988年に出版された『初期朝日関係史(下)』を執筆している。
50余年の問、真の朝鮮史を定立するために心血を注いできた金錫亨博士は、弟子たちに、しばしば「歴史学者になるためには、民族の心を血として愛国精神を肉としなければならない」と語ったという。
大阪でお見受けした博士は、背はさほど高くはないが、がっしりとした体格の信念を持った学者にふさわしい容貌の人であった。そんな金錫亨博士も残念ながら1996年2月26日にこの世を去った。その遺骨は、平穣の「愛国烈士陵」に安置されている。

「愛国烈士陵」の金錫亨博士の墓碑
筆者略歴
1978年朝鮮大学校理学部物理学科卒業
1985年東京都立大学大学院理学研究科博士課程修了、理学博士
2008年第15回韓国科学史学会論文賞受賞
現在、朝鮮大学校理工学部教授、国際高麗学会日本支部理事
著書に『朝鮮科学史における近世-洪大容・カント・志筑忠雄の自然哲学的宇宙論』思文閣出版(2011)、『エピソードと遺跡をめぐる朝鮮科学史』皓星社(2012)など。
「科学と未来」第20号に掲載