連載 ■ 科学史 第3回
放浪の科学者―農学者 ─ 桂応祥
任 正爀
解放前、大学を卒業した人の多くは相対的に裕福な家庭で育った人たちである。そんななかで、炭焼きの貧しい農家に生まれながら朝鮮を代表する科学者となった人が桂応祥博士である。彼は、1892年平安南道定州郡の山間の農家に生まれ、あらゆる苦労を重ねて九州帝国大学を卒業、研究助手を経て中国広東にある中山大学の教授となった。解放直後には水原農事試験場・場長を務め、北に移って金日成総合大学教授、中央蚕業試験場・場長、そして農業科学院・院長にまでなった。

小説『探究者の生涯』
その人生は壮絶で、『探究者の生涯』という小説にもなっている。日本、中国、ベトナムなどを渡り歩いた博士はいつしか放浪の科学者と呼ばれた。桂応祥博士は周りの人にしばしは次のように語ったという。
というのも、桂応祥が村の書堂を終えてソウルの五星中学校に入学したのは19歳の時である。その頃、書堂の「訓長」が死んで村の人たちは彼を訓長に推した。炭焼人の息子が村の名士になるのである。彼の父は非常に喜んだが、桂応祥の眼中にはすでに古い儒学はなく、「新学問」をめざし家出同然にソウルに向かった。
もとより家の援助は期待できない桂応祥は、極限まで生活を切り詰めアルバイトをしながら五星中学校を首席で卒業した。しかし、植民地状況下で卒業生のほとんどは進学を断念し辛い生活が待つ現実社会へと出ていった。当然、桂応祥もそのなかの一人で、次のように語っている。
しかし、学問への未練は断ちがたく、しばらくして日本に渡り、東京で一年ほど英語専門学校に通い、長野の上田蚕糸専門学校を経て九州帝大農学部養蚕学科に入学する。もともと、生物学に興味を持っていた桂応祥であるが、彼が養蚕学を志したのには、ある出来事が契機となっている。
中学時代に江華島の友人の家で過ごした時、村人が死んだ蚕を持って彼らを訪ねてきた。ある業者から購入した蚕が大量に死んだので、その原因を調べて欲しいという。村人から見れば中学生は高学歴の持ち主である。自分たちの窮状をなんとかしてくれるのではないかと思ったのだろう。農家で育った桂応祥にしても、彼らがどのような気持ちで蚕を育てているかは充分に知っている。そこで学校に持ち帰り、顕微鏡で繭と蚕を調べたところ小さな虫が寄生していることを見つける。それによって、村人たちは業者の賠償を得て、以後も健康な蚕を購入することができた。このことによって、桂応祥は専門的な知識の必要性とその有効性を痛感し、自分もその方面で役立とうという決意を固めたのである。
大学時代の桂応祥について次のようなエピソードが残されている。彼は、ある農家に下宿したが、その時自分への手紙は取り次がず、卒業した後に渡して欲しいと頼む。というのも、深い山間にある実家とその周辺の人たちは滅多なことでは手紙を書かず、もし書く場合は肉親の不幸を知らせる手紙である。しかし、そのような卦報を受け取ったにしても、旅費すらない自分にはどうすることもできはい。であれば、はじめからそのようは知らせを聞かず、心乱すことなく勉強に晦念しよう、苦学を強いられた桂応祥の悲壮なまでの決意であった。
最初の研究論文
当時の大学で養蚕学科があったのは九州帝大だけで、そこにはこの分野の中心的存在として多くの人材を育成したことで知られる田中義麿博士がいた。桂応祥の最初の研究論文は、「体皮開後に於ける蚕および蚕蛾の器官の運動について」であるが、この論文を準備するために、彼は二ヶ月の間、連日蚕の解剖を行っていた。その姿を眺めながら、桂応祥の才能を高く評価していた田中は少々失望したという。というのも、自分を含めて今まで多くの学者たちが数限りなく行ってきた蚕の解剖である。新しい発見はないだろう、的確なテーマを選ぶことも研究者の大切な資質だと考えていたからである。
ゆえに、桂応祥が提出した論文もしばらくの間、机の上に無造作に置かれていた。ところがある日、何気なく論文を眺めていた田中は次のような文章に目を止めた。
新しい発見があるはずもないと思っていた田中だけに、桂応祥の鋭い観察力に驚嘆した。この論文は、すぐに九州帝大農学部養蚕学教室業績五号に認定され、『農学部学芸雑誌』第1巻第5号(1925)に掲載された。
卒業とともに田中の研究助手となった桂応祥はその後も「家蚕およびクハコ幼虫の前胸腺」、「家蚕蛾科幼虫および踊の脳に於ける粒状体について」をはじめ数編の論文を発表、さらには田中の著書にも彼による実験結果が多数引用されるなど、文字どおり研究助手として大きな役割を果たした。しかし、桂応祥自身はそれによって研究者として自立したいという思いを強くする。

『農学部学芸雑誌』に掲載された論文の挿入図
中国広東にて
1929年に満州鉄道の嘱託となった田中は桂応祥に満州行きを勧めるが、彼は同じ研究室で苦労を共にしてきた中国人留学生梁邦傑の心情を思いそれを受け入れなかった。そんな桂応祥を梁邦傑は自分とともに中国に来てはと誘う。故郷を離れてすでに十数年、これからも異国の生活を続けることになるのかと桂応祥は悩んだが、研究のためにと中国広東に向い、1930年春から38年10月まで、桂応祥は仲愷農工学校、中山大学教授を務めながら、広東地方に適応する数多くの蚕を育成する。
中山大学は三民主義で知られる孫中山(文)が創立した大学で当初は広東大学と呼ばれていたが、後に孫文を記念して中山大学と改称された。当時、彼が住んでいた家は現在も保存され、その功績を讃えた碑文が置かれている。
しかし、中国の生活も順風万帆ではなかった。1937年に南京大虐殺事件が起こった時のことである。日帝の蛮行に憤慨した学生たちが、桂応祥を日帝の手先だとして吊し上げた。というのも、中国に来てしばらくの間、桂応祥は日本語で遺伝学の講義を行っていた。それをある学生がナチスと同様な人種論を講義した反動学者だと弾劾したのである。桂応祥を知らない他の学生もそれに追従した。南京の状況を調べて戻り、その信じられない光景を目の当たりにした梁邦傑はすぐさま学生の前に出て彼を助けた。病院で看護しながら謝罪する梁邦傑に対して、桂応祥はすべては日帝の罪だと力なく語るだけだったという。
祖国へ
38年夏、日帝の侵攻に備えて仲愷農工学校も疎開することになり、桂応祥も帰国せざるをえなくなる。異国の地とはいえ、多数の研究成果をあげた充実した日々であった。祖国に帰って果して満足のいく研究ができるのかという不安を胸に帰国の途につく。梁邦傑はこれからの研究のためにと蛹をいっぱいに詰めたトランクを桂応祥に差しだした。
陸路を避けベトナムのハノイで朝鮮への船便を待ったが、時間は虚しく過ぎるばかりであった。そして、ふ化し始める蛹を氷で冷やし、またふ化したものは再び蛹となるまで待って何とか持ち帰ろうとしたが、結局は徒労に終わった。それでも、その時の経験は後に「柞蚕の化成および冷蔵法による発育抑制について」という研究に活かされた。
半年後、やっとのことで帰国した彼を待っていたのは日帝警察による逮捕であった。桂応祥は大学時代もずっと朝鮮服で通すなど民族的自負心の強い人で、1919年の三・一独立運動の時も東京での運動の先頭に立って、日比谷警察署に留置されたことがあった。そのような「前科」があり、帝大助手を経て中国の大学教授となった彼はすでに朝鮮人社会の「名土」として知られ、日高市警察から見れば要注意人物となっていた。彼は書いている。
釈放後、農事試験場のある水原に拠点をおいて研究活動を再開するが、この頃にこれまでの研究を総合し「家蚕の繭色および卵形の遺伝に関する研究」という論文にまとめて九州帝大に博士論文として提出している。しかし、その時にはこの論文は出版されず、1948年になって「家蚕の遺伝に関する研究」という題目で『農林水産研究報告』の第1号として出版され、これによって北朝鮮の初めての農学博士を授与されている。
ルイセンコ学説との対決
朝鮮が解放された時、彼は自主再建された水原農事試験場・場長に推された。これでやっと心おきなく研究ができると思ったのも束の間、米軍政の管制令により試験場の管理権・監督権および人事権はすべてアメリカ人顧問に掌握され、桂応祥も場長を解任されてしまう。北朝鮮から総合大学教授の招牌状を持った人が訪ねてきたのはちょうどこの頃である。もともと、桂応祥は平安南道定州郡の貧農の出身であり、何の問題もないように思われた。
ところが、彼は慎重であった。というのは当時ソ連でミチューリン・ルイセンコ学説が席巻していたからである。桂応祥が専門とする古典遺伝学は種の遺伝を重要視して、その法則と人為的な変異による品種改良を試みる。これに対してルイセンコ学説は環境によって品種の改良をもたらすというものである。それらは本来相補的なものだが、ルイセンコはそれを「新遺伝学」と称して古典遺伝学を完全に否定した。そして、それが科学的論争に留まらず権力闘争の様相を呈し、1940年にルイセンコはついにソ連農業科学院・院長にまで昇りつめる。
雑誌その他の出版物でソ速でのそのような状況を知る桂応祥は、北朝鮮もその影響を受けているのではないかと懸念したのである。もし、そうであるならば自分の研究活動においても支障が出るに違いない。これまで日本、中国、南朝鮮と研究場所を求めて「放浪」してきた自分にとって、北朝鮮で研究が出来なければ次に行く場所はどこにもない。彼が慎重になるのも当然のことであった。しかし、桂応祥は金日成主席の直筆による招牌状を信じ、北に向かう。
桂応祥は金日成総合大学農学部教授、中央蚕業試験場・場長となり研究および教育活動に専念し、すぐにも新しい蚕種を育成して北朝鮮の蚕種の自給自足に大きく貢献する。農学部が沙里院農業大学(現・元山農業大学)へと分離独立した時、蚕学部が新設され桂応祥は学部長になるが、その時彼が懸念していたことが起こった。
大学などの教育機関を管轄するのは教育省であるが、ソ連の新遺伝学を是とする副相(次官)はじめ何人かの要員が桂応祥の古典遺伝学を反動学説として、学部長から解任するのである。学長は金日成主席が迎えた桂応祥を勝手に解任することはできないと、その指示をはねのけた。しかし、上部の「権限」で「遺伝学」をはじめとする桂応祥の講義は中止となり、学生たちの講義ノートも破棄するよう通達された。それでも、桂応祥は臆することなく自説を曲げず、ひたすら研究に打ち込む。
学長を通じてその状況を知った金日成主席は副相らに科学的論争はあくまでも認識的見地から行うべきだと反省を促し、彼らとともに中央蚕業試験場に出向いた。そこで整然と区分された原種の蚕と、その交雑によって新しい蚕が数多く育成され、それがすでに現場で価値あるものとなっていることを確かめた金日成主席は、桂応祥の遺伝学は決して反動学説ではないと断言した。
ところが、副相その他の者がその後も桂応祥への中傷を行い、教育現場でも「新遺伝学」のみを教えるよう強要していることを知った主席は断固たる処置を取り、彼らをその職から解任する。ソ連への教条主義の克服と北朝鮮での主体の確立、そして桂応祥の研究成果によって古典遺伝学の正当性が認識され、彼の学界での地位はゆるぎないものとなる。
波乱の生涯に幕を閉じる
桂応祥の研究を一言でいうならば、遺伝学を駆使して朝鮮の気候風土に合う生産性の高い蚕を育成することであるが、とくに菎麻蚕の育成において大きな成果を挙げている。普通、われわれが知る蚕は家蚕と呼ばれ桑の葉を餌とするが、菎麻蚕は麗麻を餌とする。桑の木は育てるのに時間がかかるが、菎麻は一年生で実からは油が取れ、茎は繊維の原料となる。故に、非常に経済的に優れた品種であるが、原産はインド地方でそれを朝鮮で飼育するためには、過冬性が高く病気にも強い品種に改良する必要があった。
すでに日帝時代から田中義麿をはじめたくさんの人たちが研究を行い、総督府も朝鮮でそれを育成しようとしたが結局は失敗に終わっている。このような菎麻蚕を桂応祥は長年の研究の末、朝鮮土着の蚕との種間交雑によって改良を果たすのである。
桂応祥は1948年に「家蚕の遺伝に関する研究」で農学博士を授与されているが、その他にも柞蚕、菎麻蚕の育成技術の確立によって、「人民賞」、『労力英雄」を授与されている。桂応祥には、『柞蚕学』、『菎麻蚕』、などの著作があるが、それらを集大成したものが『桂応祥選集』全三巻である。このような学術書は共和国では稀で、それほどに彼の業績が高く評価されていたということである。
そんな彼が最後に挑んだのは天蚕の育成である。その繭は最高級の絹糸で、「蚕のダイヤモンド」と呼ばれているが、病気に弱く生産性が低い。そこで何とか朝鮮の風土に合うように改良を試みるのだが、結局は果たせず他界した。
1967年4月25日のことである。その日、桂応祥は平壌での最高人民会議を終え、研究所に戻る車中にいた。高速で走る車はカーブで牛車と接触、窓を破って飛び込んだくびきが、膜想にふける桂応祥の額を強く打った。その瞬間に彼の思索は永遠に停止した。享年75、最後の最後まで波乱に満ちた生涯であった。

桂応祥博士と彼が育成した蚕の切手
筆者略歴
1978年朝鮮大学校理学部物理学科卒業
1985年東京都立大学大学院理学研究科博士課程修了、理学博士
2008年第15回韓国科学史学会論文賞受賞
現在、朝鮮大学校理工学部教授、国際高麗学会日本支部理事
著書に『朝鮮科学史における近世-洪大容・カント・志筑忠雄の自然哲学的宇宙論』
思文閣出版(2011)、『エピソードと遺跡をめぐる朝鮮科学史』皓星社(2012)など。
「科学と未来」第19号に掲載