連載 ■ 科学史 第2回
量子力学への挑戦 ― 物理学者・都相禄の研究活動
任 正爀
朝鮮に本格的に物理学が導入されたのは1876年の開国以降のことである。しかし、それが根付く前に日本の植民地となり、朝鮮人による物理学史の展開は少数の学者たちの活動に委ねられた。その代表的人物が都相禄である。
1945年9月まで物理学を専攻し学士以上となった者は現在まで確認されているのは22人で(【表1】参照)、そのなかで学術雑誌に論文を発表した者はミシガン州立大で博士号を取得した崔奎南、京都帝大で博士号を取得した朴哲在、東北帝大卒の林克済、そして東京帝大卒の都相禄の4人だけである。とくに、都相禄の論文は現代物理学の柱の一つである量子力学に関する貴重なものである。また、彼は解放直後の高等教育史においても重要な位置を占めている。ここでは、彼の手記を引用しながら、その足跡を辿ってみる。

都相禄の略歴
1903年10月13日咸境南道咸興に生まれた都相禄は、1919年に私立永生高等普通学校を卒業、日本に渡り1925年に第6高等学校、1930年に東京帝大理学部物理学科を卒業した。その後、開城の松都高等普通学校の教員となり、1940年以降は満州の新京工大教授を務め、解放の日を迎えている。
中学卒業年と高等学校卒業年に6年の開きがあるが、それは、3・1運動に参加して一年間投獄され、国内の学校では願書を受け付けなかったからである。また、大学時代にも学費を準備するために休学して中学校の教壇に立ったこともあるという。
都相禄は、「科学を志す青年の道」という手記で、大学卒業当時のことを次のように書いている。
都相禄が松都高等普通学校教員となったのは1932年頃のことである。1935年の日本数学物理学会年会の講演目次に彼の所属が松都普通高等学校と明記されているが、目次には、都相禄の「固有値問題とハイゼンベルグの不決定関係」、「マックスウェルの方程式に就いて」、「電磁場の根本方程式に就いて」の三つの講演表題が掲載されている。その後も松都普通高等学校で研究を続け、1940年には『日本数学物理学会記事』(英文)に「ヘリウム・水素分子イオンの量子力学的取り扱い」を発表している。
代表的論文
量子力学は1926年のシュレディンガーの波動力学とハイゼンベルクらの行列力学によって一応の完成を見る。実際問題へ適用するために様々な近似法が開発されたが、都相禄の論文は、その代表的近似法である変分法によるものである。
変分法は、ハミルトニアンの期待値が厳密解周辺における変分に対して、厳密解で極小となる性質を利用した近似法である。実際には、正確な波動関数の代わりにあるパラメーターを含んだ試験関数を仮定し、その試験関数の下でハミルトニアンの期待値が極小となるパラメーターを求め、それによるエネルギー固有値などを決定するというものである。その試験関数が正確な波動関数とどの程度一致をしているのかは判断できず、得られたエネルギー固有値の精確度も不明である。ゆえに、実験により近い値を出す試験関数の選定が一つの課題となる。

【図1】ヘリウム・水素イオン
変分法は、まず、ヘリウム原子、水素分子に応用されたが、その次に想定されたのが図のようなヘリウム・水素分子イオンである。理論的には、まず、1936年にBeachがヘリウム水素イオンの波動関数を、ヘリウム原子と陽子(【図1】はこの描象に基づいている)、水素原子とヘリウムイオン、励起状態のヘリウム原子と陽子という3つの描象から想定し、それらと、さらにそれらを組み合わせた試験関数による変分計算を行い、解離エネルギーとして2.02eVを得た。その後1938年にCoulsonとDuncansonが、Beachの場合も含めた様々な波動関数を想定し、摂動および変分計算を行い0.61~2.10eVの間で解離エネルギーを求め、正確な値はおそらく1.5eV程度であると予測した。
実験的には、1939年にM’EwenとArnotが質量分光学によって、水素分子イオンとヘリウム原子の衝突でヘリウム水素イオンと水素原子が生成されることを確認した。彼らは、水素分子イオンの解離エネルギーは2.6 eVであり、CoulsonとDuncansonの計算でヘリウム水素イオンの解離エネルギーは1。5eV程度と予測されているので、水素分子イオンの運動エネルギーによって1.1eV以上のエネルギーを得ることができれば、その生成は可能となると指摘した。
以上のことを踏まえ都相禄は、CoulsonとDuncansonによる計算をより精密化した。系のハミルトニアンは原子単位で次のように与えられる。


【図2】『日本数学物理学会記事』の論文
この系に関して変分法を適用する際の試験関数は、水素原子について良い結果を得たJames、Coolidgeに従い12個の波動関数を仮定し、その一次結合を試験関数とする。それによって、 I =〈 Ψ|H|Ψ 〉を求め、12個の結合定数を変分パラメーターとしてハミルトニアンの期待値が極小となる値を求めるのである。結果はR=1.346で解離エネルギーは1.28eV、Coulsonらが予測した値に近いものとなっている。(【図2】はその論文の最初の1頁である。)
さて、この計算のもっとも手間のかかる部分は、ハミルトニアンを両側から試験関数を挟んだ積分、すなわち行列要素を求めることであるが、それについて都相禄は小谷正雄らによる分子積分表を活用している。分子積分表は分子内の電子間の反発を表現する様々な積分の値を表にしたもので、1938年と1940年の『日本数学物理学会記事』の特別号に掲載された。分子積分表とその作成経緯について、大野公男は日本物理学会誌に掲載された小谷正雄への追悼文で次のように書いている。
ゆえに、都相禄の計算はそれを活用したもっとも早い事例といえるだろう。当時、この論文が学界においてどのように評価されたのか、という問題は興味あるところであるが、残念ながらそれを知る資料はないようある。
小谷正雄は都相禄の東京帝大の一年先輩で、卒業後そのまま講師に任じられ1943年に教授となった。1935年頃には理論物理学の基礎的問題を追究していた都相禄が、このような量子力学の数値計算を行なったのも、当時、この分野の中心的存在であった小谷と近い関係にあったからだろう。論文末尾の、親切な指導に対して心から感謝する、という小谷への謝辞がそれを裏付ける。さて、この論文について都相禄自身は次のように語っている。
Coulsonは当時ケンブリッジ大学の教授で、小谷正雄とともにこの分野の権威者として知られていた。彼らもJames、Coolidgeらの波動関数を用いて計算を行なったが、5つ波動関数の一次結合しか採用せず、解離エネルギーの下限値として0.32 eVを得るに留まった。彼らは、より多くの波動関数を取り入れることによって計算結果に改良をもたらすだろうと指摘したが、大変手間がかかるとしてそれ以上は追究しなかった。都相禄が、彼らが手をつけたが断念した問題と表現したのはこのような経緯があったからである。
松都高等普通学校は、当時、名門中学校として知られていたが、研究条件面では大学と比べるべくもなく、都相禄が彼らにある種の競争心を抱いていたとしても不思議ではない。そして、その背景には日本による植民地支配がある。当時、日本の主要大学の理工学部朝鮮人卒業生は200余名で、大学および研究所に勤務した者は10名に過ぎない。日本の植民地政策によって高位の研究職および技術職への朝鮮人の登用は低く抑えられており、研究者を志していた都相禄も民族的差別を感じていた。彼は、これについて次のように書いている。
都相禄がこのように判断した具体的な生活体験については書いていない。しかし、彼はこの時から日本の差別政策に対する反発心とともに亡き祖国への思いを胸に抱き、自身の研究成果によって朝鮮人のプライドを誇示しようとしたのである。
都相禄の啓蒙活動

【図3】『朝光』に掲載された解説記事
都相禄は前述の論文の他、二編の論文を学術誌に発表しているが、他方で植民地期の唯一ともいえる量子力学に関する本格的解説を残している。雑誌『朝光』1936年3-4月号の2回にわたって掲載されたに掲載された「因果律の再吟味」(【図3】はその最初の頁)がそれである。
1930年代朝鮮では科学啓蒙活動と関連して「科学運動」という重要な展開があった。科学運動とは、「発明学会」と「科学知識普及会」によって主導された歴史的運動のことで、理念的には朝鮮の実情に適した技術を発明し、それに基づいて小資本・小規模工業を発展させ産業の独立を達成しようというものである。実践的には、おもに朝鮮人の手による発明の振興と、雑誌『科学朝鮮』の刊行と様々なイベントによる科学知識の大衆化に力が注がれた。『科学朝鮮』は、その名の通り植民地朝鮮における科学技術をテーマとした唯一の大衆誌で、科学関係の解説記事の大半はこの雑誌に掲載されたものである。
一方、『朝光』は民衆啓蒙と民族思想の鼓吹を目的として、1935年から1944年12月まで発行された、時事解説、朝鮮文化全般と文学、時には自然科学的内容までも含んだ総合雑誌である。執筆者には、当時の朝鮮を代表する文化人、知識人たちが名を連ねている。ただし、1941年以降は検閲が強化されたためか、日本語による御用記事が多くなる。それでも、創刊辞に、「社会民衆の文化行程の一助となるよう<常識朝鮮>の朝の光にならんと発行する」とあるように植民地時代にこの雑誌が果たした役割は大きい。
さて、都相禄の解説記事「因果律の再吟味」は量子力学の確率解釈に関するもので、広い地壇の上に聳える因果律、傾く因果律、量子論の台頭、正面が崩れた因果律の4節から構成されている。因果律とは原因と結果との関係性を意味するが、古典力学では一本の線で結ばれるが、不確定性関係が重要となる量子力学ではそうではない。
解説では、まず、今日の自然科学においては問題とするのは物体の本性ではなく現象がどのように現れるのかという点にあると強調する。次に、これまで自然現象の法則性は絶対必然であると信じられてきたが、すべての要素とその状態を人間は知ることができないので、実際は「近似然」であると指摘する。そのうえで、因果律が自然認識の対象となりえない新しい世界が物理学者の前に広がったとし、その内容を量子力学の立場から数式を用いずに述べるとする。
まず、波動は運動の伝播で物質の移動ではないことを強調した後、光電効果について触れてそれはマックスウェル・ヘルツの電磁論では説明できず、アインシュタインが光を粒子とする光量子仮説で説明した。他方、結晶によるX線の回折現象などは光の波動説でなければ理解できない。ゆえに、光の波動性と粒子性は一体のものとして是認せざるを得ず、量子力学によって「波動性と粒子性は同一の事象の二つの古典的形式」であることが理解できる。
次に、「運動量」について言及し、電子の位置と運動量の同時決定の問題を提起してハイゼンベルクの「不確定性原理」を説明する。そして、電子の運動を確率的に決定することができても、因果的には決定できない。結果、量子論に関する限り少なくともハイゼンベルクの不確定性原理を是認する以上、因果律の拒否が唯一の自然な道とする。
さらに、関数について説明した後、水素原子の電子に量子力学を適用して得られた答えは位置QとエネルギーEの関数S(E、Q)として表示され、電子の位置を定めるための実験を行うと位置をQとQ+qとの間で観測する確率は、S(E、Q)の絶対値二乗とqとの相乗積で表示されるという波動関数の確率解釈を明らかにしている。
最後に、波動関数の確率解釈に関しては有力な科学者のなかでも、その背後に何らかの必然的法則が隠れているのではないか、あるいは数学的確率を物質現象に適用すること自体が正しくないのでないか、という否定的な意見があるが、それらは決して量子力学を覆すことにはならないだろうと強調している。
以上、できるだけ原文に忠実に内容を要約したが、それはこれが植民地期朝鮮における量子力学に関する唯一の本格的解説であり、ゆえに当時一般人の量子力学への理解はこの範囲に留まっていたと思われるからである。
都相禄はこの解説を執筆するうえで、日本の雑誌『思想』に掲載された仁科芳雄「量子論に於ける客観と因果律」、石原純「現代物理学に於ける時間空間概念及び実在の本質」、「自然の因果性と認識論」などを参考としている。
仁科芳雄は当時の日本を代表する物理学者で、その論稿は、諸言、量子現象、量子力学と不確定性原理、不確定性原理並に量子論に於ける実験と客観、量子論の反面性と因果律、諸語から構成されているが、全体的に都相禄の解説記事よりも水準は高い。都相禄の場合は物理学についてほとんど何も知らない読者を想定したためであるが、それはすでに物理学が浸透していた日本との違いを反映している。
それでも、都相禄の記事は当時の物理学関係の記事のなかでは群を抜いている。例えば、同じ『朝光』に掲載された崔奎南の記事「天文学上に見る宇宙線」は当時の物理学の最先端の話題を取り扱ったものであるが、時事的な内容に留まっている。量子力学関連の記事としては『科学朝鮮』に掲載された朴吉龍「物質の正体」、金容瓘「原子とは何か」など2編があるが、前者は水素型原子に対するボーアの理論を紹介するのに留まり、後者は原子の構造を太陽系のアナロジーによって説明する不正確な内容である。これと比べて量子力学の本質的内容の説明を試みた都相禄の記事は水準が高い。しかし、彼の解説記事一つだけでは、一般人はそれについてほとんど触れることがなかったというのが実状で、このこと自体は朝鮮にとって不幸なことと言わざるを得ない。
満州新京工大にて
1940年代になって都相禄は、東京帝大物理学科教授の西川正治の紹介によって新京工大の教授となった。ちなみに、西川正治は日本結晶学会の初代会長を務めた人物である。新京工大は「満州国」の首都新京(現在の長春)に設置された国立大学で、1938年創立の満州工鉱技術院が1939年に修業年度4年となり国立新京工大と改称されたものである。都相禄が新京工大教授となったのは1942年頃のことと思われるが、それはこの年に満州物理学会が組織され、その会員名簿の職名が新京工大教授となっていることから確認できる。満州物理学会は、新京、旅順、大連、奉天、鞍山の物理関係団体が合体したもので、会員数は77名である。43年には『満州物理学会誌』第1巻第1号が刊行されている。

【図4】『満州物理学会誌』裏表紙
発行人は会長である長谷川謙、そして編集人は都禄一郎である(【図4】、参照)。この都禄一郎が都相禄の日本名であることは改めて述べるまでもないが、念のために後述する1942年に『日本数学物理学会記事』に発表された論文の名前が、Rokuitiro MIYAKO (former Soroku TOH)となっている事実を挙げておこう。 1940年以降日本は植民地政が策の一環として「創氏改名」を強要したが、彼もそれに従わざるを得なかった。
ところで、学会誌の編集を任されたとういうことは、都相禄の学識が他の会員からも認められていたという事であるが、この頃、彼は物性論関係の中堅の研究者たちが組織した「物性論懇談会」にも参加している。錚々たる人たちが集まっているが、世話人の一人が小谷正雄ということも関係しているのだろうが、日本の研究者のなかでも彼は知られた存在となっていた。
物性論談話会の第一回研究会は1943年4月に開催され、その講演アブストラクトには「気体の第3ビリアル係数および状態方程式について」という都相禄の講演表題が掲載されているが、実際には講演は行われなかったようである。それとともに、1942年には『日本数学物理学会記事』に「低温での気体水素の粘性と第2ビリアル係数」を、さらに『満州物理学会誌』には「第3ビリアル係数に就いて」を発表するなど、この頃の都相禄の研究活動は実に精力的である。ところが、1945年6月、大学内における朝鮮人、中国人への民族的差別の改善を大学当局に要求し、大学を追われ、ソウルに戻ることになる。しかし、この事は都相禄にとってむしろ幸いであった。その二ヶ月後、朝鮮は解放の日を迎えたからである。
大学創立事業への参画
解放直後の9月のある日、都相禄をはじめとする数人の物理学者たちが現在の高麗大学校の一室に集まり、自分たちの力で朝鮮の物理学を発展させる方途を話し合い、まず京城帝国大学を京城大学として再出発させるために努力し、11月には講義にこぎつけたという。この時、都相禄は理工学部長として、その運営に当たる。同様に法学部、医学部なども学者たちの努力により開講、京城帝大は「京城大学」として自主再建された。
解放前、朝鮮における唯一の大学であった京城帝大は、1924年に予科が設置され、1926年に医学部と法文学部で開学し、その後1941年に理工学部が新設された。日本の植民地政策の一環として創立されたもので、理工学部の目的も大陸兵站基地としての工業的能力を備えるうえで必要な研究事業を行うことあった。入学生もほとんど日本人で、物理学科卒業生を見ても26名中、朝鮮人は6名に過ぎなかった。京城帝大の存在と果たした役割は、日本の植民地統治の「負の遺産」といえるが、運営方式と施設面では高等教育機関としての面貌を兼ね備えていた。したがって、解放直後に新たに大学を作るよりも、それを再建する方向で朝鮮人自身が運営する大学を作ることは自然なことであった。
ところが、アメリカ軍政下で再建された大学、専門学校を統廃合するという「国大案」が発令される。当事者にとっては容易に受け容れることができるものではなく、また、この国大案は各学校から左翼系学者たちを排除するものと思われ、反対意見が強かった。理工学部長であった都相禄も教員たちの意見をまとめて米軍政に反対意見書を提出するが、逆に教授職から罷免されてしまう。
京城大学を罷免された都相禄は北に向かい、7月3日当時「北朝鮮臨時人民委員会」委員長であった金日成将軍と謁見、総合大学創立事業に携わる。また、「国大案」反対運動によって大学を追われた学者たちもそこに合流する。そして、1946年10月に金日成総合大学が経済・法学部、歴史・文学学部、物理・数学部、工学部、運輸工学部、農学部、医学部の7学部、教員数68名、学生数約1600名で開学、都相禄はまたも物理・数学部長を務めることになる。他方、他方、8月22日に「米軍政法令102号」として公布された国大案によって、10月15日にソウル大学校が開学する。図らずも、現在、南北朝鮮を代表する二つの大学はまったく同じ時期に誕生したのである。
金日成総合大学は、その後、工学部が平壌工業大学へ、医学部が平壌医学大学へ、農学部が沙里院農業大学へとそれぞれ分離・独立していった。そして、1949年12月に第一回卒業式を迎えるが、卒業生は物理・数学部の19名であった。

晩年の都相禄
その後、都相禄は1952年に科学院が設立された時に院士となり、その後も朝鮮民主主義人民共和国の物理学界において主導的役割を果たし1990年にこの世を去る。しばしば、共和国の核開発と関連してその名前が挙げられることがあるが、それは不正確であくまでも核物理学の基礎を築いた人物である。彼はその手記に「科学は学者に努力しただけを与える。科学は人間のすべての精力と一生涯を要する戦いである。」と書いたが、まさに彼自身そのように生きたのだろう。
参考文献
都相禄「科学を志す青年の道」『祖国』1965年8月号、127-131頁
任正爀「物理学者都相禄の研究活動と解放直後の社会活動」『朝鮮近代科学技術史研究』
皓星社(2010)、431-457頁
筆者略歴
1978年朝鮮大学校理学部物理学科卒業
1985年東京都相禄立大学大学院理学研究科博士課程修了、理学博士
2008年第15回韓国科学史学会論文賞受賞
現在、朝鮮大学校理工学部教授、国際高麗学会日本支部理事
著書に『朝鮮科学史における近世-洪大容・カント・志筑忠雄の自然哲学的宇宙論』
思文閣出版(2011)、『エピソードと遺跡をめぐる朝鮮科学史』皓星社(2012)など。
「科学と未来」第18号に掲載