連載 ■ 韓国の財閥 第9回
韓国の鋼鉄王 朴泰俊
金 哲央
2011年12月14日、日本を代表する新聞である朝日新聞は、異例ともいえる紙面をさいて、韓国ポスコ初代社長である朴泰俊の死を報じた。その記事を紹介しよう。

韓国の経済成長を引っ張った大手製鉄会社ポスコ(旧・浦項総合製鉄)の創設者で、故・金大中大統領時代に首相を務めた朴泰俊(パク・テジュン)同社名誉会長が13日、呼吸不全のため、ソウルの病院で亡くなった。84歳だった。
1927年、慶尚南道生まれ。陸軍士官学校を出て61年の朴正熙(パク・チョンヒ)少将らによる軍事クーデター後の「国家再建」に加わった。68年、同社創業とともに社長に就任。92年まで経営を陣頭指揮し、同社を世界有数の鋼鉄メーカーに育てあげた。
81年に国会議員に初当選後、政界でも活躍。金大中氏の大統領選を支えた。
2000年に4ヶ月間、首相も務めた。元韓日議員連盟会長。(ソウル=中野晃)(→国際面)

ポスコ名誉会長の朴泰俊氏が13日亡くなった。「漢江の奇跡」と呼ばれた韓国の1970~80年代の経済成長を支えた浦項総合製鉄(現ポスコ)。65年の日韓国交正常化に伴う経済協力資金も投入された国策会社を計画段階から指揮して世界企業に育て、日本との縁の深さでも知られた。
植民地支配下の27年に生まれ、幼少期に日本へ。早稲田大で機械工学を学び、日本の敗戦で中退するまで東京などで過ごした。
48年の韓国建設後は軍人に。軍人出身の朴正熙大統領から製鉄所建設の「特命」を受けると、日本との豊富な人脈を生かして資金や技術協力を引き出し、73年には韓国初の高炉での生産開始にこぎ着けた。
一方、81年の初当選後、政党代表になるなど国会議員としても活躍。その後、金大中大統領の当選を支え、当時の経済危機では日本からの支援獲得に奔走し、政権を支えた。
韓国財政界での「知日派」が少なくなる中、中心軸の一人がいなくなった。
李明博大統領は「わが国の産業化に多大な貢献をした方がなくなり、残念でならない」との談話を出した。(ソウル=中野晃)
「切磋琢磨した」新日鉄の三村会長
新日本製鉄はポスコと1998年から互いの株式を持ち合っているほか、半製品を供給し合う提携を結んでいるなど関係が深い。
朴泰俊氏の死去を受け、新日鉄の三村明夫会長は「長い間、ライバルとして、またよきパートナーとして切磋琢磨させていただいた。これからも鋼鉄業や日韓関係の健全な発展のためにご活躍いただきたかった」とコメントした。
暗雲ただよう植民地の片田舎に生まれて
韓国ポスコ(旧浦項製鉄所)初代社長であった朴泰俊の一生は、紆余曲折と波乱に満ちた現代朝鮮史と、その中での現代韓国の急速な経済的膨張を象徴するものであろう。
彼は1927年9月29日、父・朴ボングァンと母・金ソスンの第一子として慶尚南道釜山の近郊の海辺の村、林浪里で生まれた。
漢学を学び、五代前の先祖が東莱郡の官吏であったことを誇る若い父親は、その妻に、「子の名前の泰俊とは、大きくなって立派な人間になれという意味なのだ」と説明した。
もうすでに日帝による植民地の暗雲は、この小さな片田舎の村にも及び始め、次第に田畑が日本人の所有になり、海の漁業権も日本人の個人所有になって行った。
ここで労をいとわず、在日の若い人々のために、植民地朝鮮のいくつかの基本的な問題を確認しておくことにしたい。
1910年8月22日、「日韓併合」条約によって大韓帝国を消滅させ、朝鮮を完全な植民地にした日本帝国(日帝)は、郡ごとに武装した憲兵が警察官を兼ね、従来の行政機構をさしおいて、広汎な行政権から即決裁判権まで行使できることにしたのである。
この体制の頂点に立つ朝鮮総督は、天皇に直属し、朝鮮駐屯軍の司令官を兼ね、三権をすべて集中する独裁者であり、必要に応じて朝鮮総督府令を発して、朝鮮社会を永続的な戒厳令下に置くようにしたのである。公立小学校の教員さえサーベルをつって教壇に立つという社会の雰囲気であった。
経済的には、朝鮮民族の自主的な資本主義的発展を抑圧するため会社設立を認可制にする「会社令」(1910)を公布し、さらに「土地調査事業」(1910~1918)は、近代的土地所有権を確定する(封建制を法的に廃止する)という大義名分をかかげながら、土地の所有権者の自己申告制(無知な農民は申告不可能である)と所有権認定機関(主に日本人による)の運営を通じて、近代的自営小農民の土地所有を圧迫・制限し、かつ伝統的に住民が公共に利用してきた「無主公山」(日本では入会地という)も申告する者がいないからとして没収し、封建的両班地主の所有権は部分的に認めることによって、日本人大土地所有が大量に創出されていった。
総督府も旧王室の封建的所有地をそっくり「継承」して最大の地主となり、それらは次第に東洋拓殖株式会社」(東拓)などに安価で払い下げられた。その結果、植民地以来10年もしない中に、朝鮮の土地の約40%が日本人の所有となり、耕地を失った朝鮮農民は生きる道を求めて流浪の旅に出なければならなくなったのである。
日帝の植民地支配の深化によって、中世的な眠りに入っていた林浪里の村にも、1930年初となると変化が現れ始めた。まず農地を失い、生活の道を求めて村を離れる人が出て来たし、村の浜で共同のイワシ漁やわかめ取りの権利は、いつの間にか日本人個人のものになり、伝統的に認められて来た海の漁をめぐって争いが起こるようになった。
また、この片田舎にも見知らぬ日本人が姿を現すようになった。ある日、二人の日本人が朴泰俊の父親兄弟の前に現れた。染谷と相楽、共に日本の大きな土木建設会社である間組関係の人間であった。間組はすでに東海道本線の丹那トンネル工事に参加しており、日本軍の中国東北部(満州)への侵略の拡大により、国内の土木建設部門に壮年労働者が不足するようになり、朝鮮人労働者の市場調査のため、農村を廻っていたらしい。
朴泰俊の父の兄弟も、この林浪里の生活の将来に大きな不安を感じていた。「代々この村で恥ずかしくない生活をしようと努力して来たが、このままでは子どもたちにしっかりした教育を与えられるか不安である……。」
染谷と相楽も、この二人の兄弟を見て何か惹かれるものを感じたようである。多弁ではないが、落ち着いた動作、子どもの将来を考える真摯な態度…。それで自分の勤める会社が朝鮮人にも「区別」なく賃金を保証し、子どもの教育も立派に出来る生活を保障すること、などを熱心に説いた。
とくに染谷は早稲田大学を卒業し、もの静かで人情味のある知識人であった。後に朴泰俊の一族は、この人と家族ぐるみの付き合いを長く続けることになるのだが、まず兄が「よし、それなら、俺が先に行って見よう。様子を見て連絡する。」と日本へ渡った。
そして、数ヶ月後、「仕事も生活も安定している。お前達も来い。」こうして朴泰俊の父が先に出発し、1933年8月、母と子が父の暮らす丹那トンネルの近くの熱海の宿にたどり着いた。朴泰俊6歳の秋である。
日本での学生時代、「彼らにはまけないぞ」
熱海は気候も良く、温泉が多く、梅とみかんも有名である。したがって人々の気風も温和であった。朴泰俊は6歳になり、日本語はまるで知らなかったが、熱海に着いて半月程すぎると一人で日本の子どもたちと一緒に遊ぶようになった。日本語も大人より早く自由になっていった。
朴泰俊の父も、誠実な働きぶりと統率力によって同胞労働者の信頼を得て、会社側と同胞労働者の間を仲介する重要な役割を担うことになった。
ここで朴泰俊の渡日から1945年8.15解放までを年表式にまとめて見よう。
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1933年8月(6歳)渡日して熱海の宿舎へ
1934年4月(7歳)熱海の海を見渡す山腹の小学校に入学
1936年11月(9歳)丹那トンネル貫通によって長野県の千曲水力発電所建設場へ。
(この間に1937年7月、中日戦争開始。1939年秋、ドイツは英・仏と宣戦布告)
1940年4月 長野県飯山中学入学
(1941年12月8日 太平洋戦争開始)
1943年4月 4年生となり進学にそなえて4時間睡眠とする。
(1943年10月2日 日本政府は学生の徴兵猶予を停止。同年12月24日徴兵年齢を1歳引き下げ)
1944年4月、5年生、17歳となる。進路を考え早稲田大学機械工学部への進学を決意。
(1944年8月23日、学徒勤労令公布。──学生、生徒は全員軍需工場へ動員される。)
(1944年10月16日、陸軍特別志願令改正。──17歳未満の志願を認める。
同 10月18日、陸軍兵役法改正。──17歳より兵役に編入。
同 10月24日 レイテ沖縄戦──日本・連合艦隊の主力を失う。
同 10月25日 神風特攻隊、初めて米艦に突撃
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朴泰俊の父の苦悩は激しく、民族差別を考慮して、染谷社長に訴え、泰俊を染谷家の養子とした後に、早稲田大学受験をすることにする。
1945年3月、泰俊(18歳)は希望通り早大機械工学科に合格。
すでに故国では1944年1月20日、若い朝鮮の人材が大量に日本軍隊に編入される「黒い魔の日事件」が起こっていた。
太平洋諸島に向かう日本軍の補給艦は、その殆どが途中で米軍の潜水艦に撃沈され、幸運にも目的地に着いたとしても、飢餓と悪疾による死が待ちかまえていた。太平洋諸島での日本兵の大部分が溺死と飢餓による「戦死」だという。
早稲田大学のコンクリの校舎も、立ってはいてもすでに空襲により多くの教室の木製の机と床は焼失し、ガラス窓もない状態であった。それでも大学が誇る大図書館は奇跡的に無傷のまま残った。
東京の街の大部分は焼失し、周辺部の民家が焼け残ったが、学生たちが下宿を探すのは殆ど不可能で、1945年8月15日、無条件降伏によって戦争が終わっても、東京における学生生活は困難であった。

朴泰俊は4月、登校して級友と共に写真を撮り、家族のために角帽をかぶった写真も撮った。学校では何日か、学生のために教育方針の説明や教授たちの紹介があったが、情勢はすでに本格的な授業に入る雰囲気ではなかった。学校側では、「学徒勤労会」によって学生たちをどこに派遣するかを決めるのに忙しい状況であった。新入生たちを、できるだけ安全で食糧が保障される「職場」に送らねばならないからである。その間にも朴泰俊は3月9~10日、5月24~25日の東京大空襲をはじめ、毎日のように発令される「空襲警報」の下で暮らさねばならなかった。
7月になって、彼は級友たちと共に群馬県吾妻郡の山峡の村に配置されることになった。
若者のいなくなった農村支援ということであろうか。静かな村の生活であったが、ラジオの伝える戦況はいずれも悲報ばかりで、彼はそれを日本の学生には言えない、異なる観点から聞いていたのである。
そして遂に8.15の天皇による「無条件降伏」の放送。ついに彼は生き残ったのである。彼はただちに父の待つ家に帰り、父の判断にしたがって、大学の学籍はそのままにして、帰国の道をえらんだ。
彼には日本での学窓生活によって、自身にはまだ自覚されていないけれども、数学をはじめとする科学知識、完璧な日本語と共に体得した日本文化、水泳や柔道(2段)やスキーと共に体得した体力と社会性と向日的な積極性、異国生活によって自然に培われた民族意識、これらは新時代の建国時代における強力な財産となっていくであろう。
放浪の末、ついに軍人の道へ
機械工学を学ぼうと決心した彼であるので、故国に帰り、勉強を続ける道をさがしソウルにも行って見たが、ソウルはまだ混乱がつづき勉学の方途が見出せなかった。また、故郷の林浪里に帰っても働く場所がなかった。稼動している工場もなかった。
ついに再び玄界灘を越え、東京に行って見た。東京の市民生活は、さらに混乱を増している様であり、母校となるべき早稲田大学もいまだ安着して学習できる場所ではなかった。再び故郷に帰り、あれこれ試みては失敗を重ねた。
ついに彼の眼に「国防警備隊」という軍人の道が浮かび上がってきた。米軍政府は南朝鮮に単独政府樹立をはかりながら韓国軍の将校養成を急いでいたのである。すでに南朝鮮警備士官学校は1946年5月よりみすぼらしい姿であるが1期生80名で開校していたのである。
1948年5月6日、警備士官学校6期生は、国防警備隊の下士官と兵士の中から、国語、国史、英語、数学、論文による試験により選抜された4倍の競争率、総277名が入学。3ヶ月の短期士官教育を受け、7月28日、朴泰俊も少尉の階級章を授与されて任官。かなりきつい訓練とひどい素食を彼は耐え抜いた。
また、この学生たちに難しい弾道学を教え、複雑な問題をすらすら解いた朴泰俊を記憶に止めた教官がいた。朴正熙教官である。この二人の関係は、その後20年間、深く結び合うことになるのだ。
民族の悲劇を生き抜き、予備校退官
彼は思うところがあって陸軍大学入学を志望した。1953年11月、朴泰俊中領は5期生として陸軍大学に入学した。入学したのは56名、択ばれて軍隊の根幹となるという使命感もあった。充実した学科と訓練を経て、翌年6月17日、卒業式となる。主席卒業者は朴泰俊中領。軍の各部署は、この金時計授与者に注目した。結局、彼は陸軍士官学校教務所長となった。学生たちは彼を「金時計」と呼んだ。
そして、この間に梨花女大をでた安東金氏である玉子嬢と結婚した。(1957年)
そして国防大学教授、国防部人事科長などを歴任している朴泰俊に対して、朴正熙は常に注目していたのであった。
1960年4月19日、ソウルで学生、市民の反政府デモが起こり、それが南半部全域に拡大して行った。李承晩が退陣して、ハワイに逃れ、許政暫定内閣が成立したが、無能であった。1961年5月18日、朴正熙らの軍事クーデターが発生。7月3日、ついに最高会議議長に朴正熙が就任した。朴正熙は軍事クーデターの失敗も考慮して、朴泰俊を軍事革命委員会の名簿にも入れないほど大事にしていた。朴正熙はクーデターに成功すると、すぐ朴泰俊を呼び、「長期間計画して来たわれわれの歴史的任務が始まった。君が秘書室長をやってくれ。まず何よりも国の骨格を正し、国民を貧国から救い出すことだ。至急に経済開発計画を樹立することだ。」
朴正熙は国家再建最高会議議長に就任し、(1961年7月)最高指導者になると、朴泰俊を議長秘書室長、兼財政経済委員会商工担当最高委員に任命した。
朴泰俊は自身の一生が新しい世界へ進む分かれ道に立っているのだと覚った。
1961年11月、朴正熙は日本を訪問し、日韓会談の早期妥結で合意した。この前提のことで1962年1月、韓国第1次経済開発5ヶ年計画を確定。1963年10月、朴正熙が大統領選挙で当選。国内での対日屈辱外交反対の声が高まる中を、この反対を押し切って国交正常化が進められた。朴正熙は大統領に就任すると、すぐに朴泰俊を呼び、自民党副総裁の大野伴睦からの親書を見せた。内容は、韓国が緊急に取り組むべきことは、日韓国交正常化を実現し、対日請求権資金を受け入れて経済開発5ヵ年計画の資金として活用すべきであるというもの。(賠償問題は出さない)朴正熙と泰俊も同感であった。
また、大野は大統領特使の派遣を要請していた。そして特使の条件としては、①大統領がもっとも信頼している人物であること。②通訳なしに自由に対話できる人物であること。③可能ならば日本で学校に通った事のある人物が望ましいこと、を挙げていた。
朴泰俊は朴正熙から、「これは君しかいない」と特使に指名され、1964年1月初旬、羽田空港に到着した。それは東京がオリンピックの準備に忙しい時期であった。羽田から都心までは東洋初のモノレールが敷かれ、東京-大阪間は時速250kmの新幹線工事が進められていた。彼は戦後日本の急速な発展に驚くばかりであった。
朴泰俊はまず日ごろ尊敬している安岡正篤(1898~1983)を訪ねた。彼は東大の法科を卒業後、伯爵酒井忠正の援助を得て亜細亜文化協会を組織し、陽明学研究会を通じて、広く華族や企業家に師として尊敬され、官僚や政財界人に大きな影響力を持っていたからである。
安岡正篤先生は快く、朴泰俊の希望を受け入れ、影響力のある多数の政界・財界の指導者を紹介してくれた。彼らと会うことによって、日本各界の人々と意見を交換し、韓国側の意のある所を伝え、韓日国交正常化のための大きな前提作りに成功したのである。朴泰俊は1963年、陸軍少将で退役していたのであるが、次に新しく任命されたのは国営企業の大韓重石社長のポストであった。これは日帝時代、良質のタングステンを生産していた小林工業(株)であるが、解放後、国営となることによって汚職の沼地となり、赤字続きであった。これを大胆に手術して経営を軌道に乗せることができた。
その頃、朴正熙と朴泰俊の間で製鉄所の問題が話題に登った。朴正熙は「製鉄所さえあれば後進性を早く脱皮できるのだが、日本はあれ程ひどい戦争をしても、戦後あれほど早く再建できた。戦後の日本で製鉄所を効果的に建設した人を誰か知っているか」。朴泰俊「戦後の製鉄所として川崎製鉄所があります。西山弥太郎社長が大変な執念で製鉄所を作り上げたと聞いています」
「西山社長を招請できないだろうか」
「西山社長に諮問を要請することは難しくないと思います。しかし、その前にわれわれの製鉄所建設計画がうまく行かない原因が何かを究明すべきではないでしょうか」
1965年、西山弥太郎川崎製鉄社長は要請に応じ、青瓦台で朴正熙大統領と会談し、次いで朴泰俊の案内で製鉄所の候補地をいくつか視察した。
彼は言う。「韓国が後進国から脱皮しようとするなら、必ず製鉄所を建設しなければなりません。国民の現在の所得水準では難しいと思われるが、何としても製鉄産業を立ち上げねばなりません。ただし国内の鉄鉱石が不足しているので、外国の輸送船が出入りできる港が必要です。また韓国政府は30万tから始めるという案だが、これからは50万tから100万tの規模が世界の趨勢です。」
報告を受けた朴大統領は、朴泰俊に次の課題として総合製鉄所建設の役割を与えた。韓国政府は総合製鉄所建設について日本政府および鋼鉄業界にも協力を求めた。1965年9月には、韓国政府の要請に応じて、日本鉄鋼連盟、海外技術協力事業団、鉄鋼大手6社の代表で構成された日本鉄鋼調査団が訪韓し、3週間にわたって現地調査を行った。
巨大プラントの輸出は大きな利益を生むため、彼らも積極的で熱心であった。
韓国政府は、実は総合製鉄所設立に当たって旧宗主国である日本の支援よりも欧米諸国の支援を期待したのであるが、世界銀行や輸出入銀行は、発展途上国の計画は経済性が不安であると財政支援を断った経緯がある。
こうして韓国政府は1968年4月の初代社長に朴泰俊を任命すると共に浦項総合製鉄を日本の協力によって建設することを決定し、経済的問題の解決のために次のような方針を立てたのであった。
①総合製鉄所の規模を100万tとする。
②所有外資は韓日国交正常化のとき、両国間で合意された無償・有償請求権資金の相当部分をこの建設事業に充てること。
③工場建設に必要な港湾、埠頭、土木、浚渫、道路、鉄道などの建設は国家が負担すること。
④鋼鉄工業育成法を制定し、租税および関税の減免、特別償却、公共料金の割引および財政資金の支援によって、操業後の採算性を確保する。

このような方針の転換の背後には、朴泰俊の働きがあった。対日請求権資金の相当部分を製鉄部分に転用するという朴泰俊の構想に基づくものである。当初、対日請求権資金は主として農林水産部門に使用されることになっていた。当時の韓国国会議員の80%が農村出身であるため、転用は不可能に近い問題であった。朴泰俊は農業振興のためにも総合製鉄所建設が必要であると、朴大統領を説得したのだ。
しかし、用途変更のためには日本側との面倒な手続きが必要であった。韓国の総合製鉄所建設に対しては日本側にも否定的な意見が多かった。だが安岡正篤の強力な根回しもあって、特に鉄鋼連盟の協力を取り付けることができた。
1969年8月、日本鉄鋼業界8社で構成される浦項総合製鉄建設協議会が発足し、八幡製鉄、富士製鉄、日本鋼管3社の社長名で「浦項総合製鉄計画の検討に関する件」についての書簡を浦項製鉄に送った。
日本政府は韓国の総会製鉄に協力することを閣議決定し、8月26日から開かれた韓日閣僚会議において浦項総合建設について原則的な合意がなされ、同年12月に韓日政府間で基本協定が締結されたのである。
韓国政府の念願の総合製鉄所の設立は、朴泰俊、安岡正篤、稲山嘉寛八幡製鉄社長のような民間人たちの協力の賜物であった。この事業に使われた対日請求権資金は無償資産3億ドルのうち3080万ドル、有償資金2億ドルのうち8868万ドルであった。半世紀が過ぎた今、朴大統領と朴泰俊の決意と方針が大きく評価されるのである。
総合製鉄所を運営する《主体》を育成するために
韓国の総合製鉄事業計画は、1958~1969年の11年間に、7回変更された後、浦項製鉄所建設事業として現実化されることになった。そして浦項製鉄所建設事業は、1970~1983年にかけて5回にわたり推進されて、これを背景として韓国の鋼鉄生産量は急速に増加することになる。
しかし浦項製鉄所1期事業が始められた1970年に、韓国で大規模の一貫した製鉄所についての経験と技術は、殆ど誰も持ってはいなかったのである。
それでは、どのようにして短期間に、高水準の生産性を実現することができたのであろうか。つまり世界的にも高い水準の製鉄所を建設し、管理運営して、生産を実現して行く工場の「主体」は、どのようにして育成されたのであろうか。
浦項製鉄が製鉄所運営に必要な技術を習得した最も重要な源泉は、一言で言えば海外における研修であった。これは浦項製鉄の公式記録にも明らかにされているとおり「工場の成果的な建設や正常の操業を可能にしたのは、何よりも海外の先進工場における委託教育の結果である」と、既存の旧式の仁川製鉄などで働いた人でも、浦項製鉄に入社した後、日本の工場を基本とする海外研修を通じて、最新の施設に接することができたのである。
公式資料によれば第1期の建設および操業のための海外研修を受けた職員数は587名に及ぶという。これらの人々の研修は1969年12月から、川崎製鉄や八幡製鉄、富士製鉄、日本鋼管の各社技術者で構成される日本技術団(Japan Group=JG)によって本格的に始められた。初めは大学卒の社員に対して計画、管理を行う基幹職に限られていたが、1971年からは高卒社員に対する実際の操業、整備などの技能職にも実施された。15~30日の視察が、2~6ヶ月の現場訓練中心の研修に変更されていった。
研修希望者をまず2倍を選定し、準備教育の結果によって半数を選び、派遣に先立って3~6ヶ月にわたり日常会話、鋼鉄用語、外国語、該当分野の専門知識などが教えられ、さらに分野別に班が構成されて、この任務の重要性についての精神教育も行われたのである。
出発に際して、研修員を前にして朴泰俊社長は、こう発破をかけたという。
「諸君は各自与えられた分野の技術を残らず修得して来なければならない。しかし、それだけでは不足である。その外に技術を一つ以上、持って来たまえ。これなくして帰国後、私に再会できると考えないようにしてもらいたい」その後、研修員たちは研修を終え帰国すると、みな朴会長のところに来て、約束どおり与えられた課題の外に技術を一つずつ差し出したという。
JG関係者は、研修員たちに技術はもちろん資料の提供についても積極的であった。
それでは日本側が、海外研修員に熱心に協力したのは何故だったのだろうか。
①まず、重要な理由は経済的利益の問題であろう。浦項製鉄の第1期事業だけでも日本のプラント輸出額のほぼ5分の1に当たる1億ドル以上の設備が必要であった。そして、つづく拡張工事も見込まれるし、この事業に成功すれば他の発展途上国からの輸出要請も期待されるのである。②また、幼い浦項製鉄に対する心理的な優越感もあったであろう。その後の浦項製鉄の急速な発展は予想外のことであった。③また、浦項の研修員と社員の他国に例のない勤勉と能動性に対する教える側の好意がいい結果を出したのであろう。
それはこれからの韓国社会の経済的発展を象徴するものであった。その後の浦項製鉄(のちにポスコとなる)の急速な発展に、日本側も恐れをなして次第に先端技術の伝習には消極的にならざるをえなくなった。

1970年代の浦項製鉄の技術活動は、先進国で広く適用されている標準化されている技術の習得を中心に展開された。すなわち先進国の技術体系とその構成要素をそのまま受け入れ、浦項製鉄という別の空間に移転し活用するという特徴を持っている。その時、問題となったのは移転の速度と精度であった。すなわち製鉄所運営に必要な技術を早く、そのまま習得することが要点なのである。このためには先進国の協調と技術導入側の積極的努力が必要である。見て来たように日本側と浦項製鉄の場合、この2つの条件が良く合致した。日本側は浦項製鉄所建設による経済的利益があったし、浦項のほうでは一つでも多く学ぼうという熱意と共に、効果的に技術を学ぶための制度的装置を整えたのである。ここに朴社長の指揮能力が大きな力を発揮したのである。
浦項製鉄は稼動に必要な技術の習得のため、海外研修と現場の操業習得に中心をおいたが、研修員たちは公式的な教育訓練に参加するばかりでなく、日課の後にも討論会を行って徹底的に訓練対策を講じたばかりでなく、非公式的な講師との関係によって情報収集に多くの努力をしたのである。その上に研修資料の蓄積と習得の成果を社員に伝える講習実施の義務化が制度化されていて、円満な工場稼動が謀られていた。すなわち円滑な稼動のためには導入技術の単純な移植ではなく、導入する側の「主体的な努力」が大きな契機となって工場運営の「主体」が形成されて行ったのである。

浦項製鉄の躍進
以上のような管理者、技術者、労働者の体制をととのえる作業と同時に、具体的な工場の建設、および労働者の住む住宅の建設が着々と進行して行った。その過程を年表の形で概括することにしよう。
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1961.5.16 朴正熙らの軍事クーデター発生。その国家再建最高会議の議長秘書室長となる。
同11.12 朴正熙訪日。韓日会談の早期妥結で合意。
1963.10.15 大統領選挙で朴正熙当選。
同12.17 大統領に就任
1964.3.9 「対日屈辱外交反対汎国民闘争委員会」を結成。
同6.3 ソウルに非常戒厳令を公布し、韓日会談反対運動を弾圧。
──朴泰俊は特使として訪日。北海道から九州まで10ヶ月間、日本の要人を訪問。韓日会談の早期妥結の根回しをする。
1965.6.22 韓日基本条約及び諸協定本調印。(対日請求権や漁業協定での大巾の妥協と譲歩は国民の間に憤激を呼び起こした。
1968 浦項総合製鉄株式会社(後ポスコposco)発足。
初代社長に就任。工場用地造成と社員住宅団地建設の工事を始める。
1969 朴社長が対日請求権資金の一部を、浦項第1期建設資金に転用する考えを発表。
1972 迎日湾に工場を建設し、中厚板工場を竣工する(7.14)
始めの製品をアメリカに出荷(7.31)
1973.6.9 第一高炉の初の鋼鉄生産に成功
7.3一貫した総合製鉄工場完工(年間103万t体制)
1974 操業6ヶ月で黒字体制確立。年間黒字242億ウォン実現。第一高炉鉄鋼100万t突破。
1974.12.1 輸出1億ドル、製品出荷100万t達成
1977 技術研究所設立
1980 浦項製鉄中学開校
1981 浦項製鉄高校開校
1983 全羅南道光陽郡の海に面する光陽の地に将来、主工場となる光陽製鉄所の開所式
1987 浦項工大 第1期入学式
光陽1期設備総合竣工(年産2700万t体制総合1220万t体制確立)、総合設備管理電算システム開発
1988 光陽2期設備竣工(年産540万t体制確立)
1989 浦項製鉄累計出鋼量1億t達成
1990 民政党代表就任
1992(65歳)浦鉄会長辞退、名誉会長就任
2000(73歳)国務総理就任。5.19 総理辞任。ポスコ民営化完了。
2004 ポスコ名誉会長
2011.12.13(84歳)死去
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以上の簡単な年表を通しても、朴泰俊のさまざまな局面での奮闘と紆余曲折が推測されるが、総体的には韓国国民の向上心に基づく驚くべき経済的な発展と歩調と共にする明るい成功の一生であったといえよう。
ただ、1964年、韓日会談における早期妥結のための根まわし工作(賠償問題をさけての)や、2000年国務総理に就任期のいくつかの疑惑を受けての5ヶ月後の辞任に見られるように、開発独裁時代の功績のみが強調され、影の部分に対する社会的省察が行われなかった結果が、今日の財閥支配体制に至る基礎になったのではないかという意見もあり、奮闘の一生、指揮の正確性、清廉潔白、などとのみ評価して良いのか、もう一歩進めて社会歴史的な背景を含めて総合的な考察が要求されるのではないかと思われる。
われわれと共に困難な時代を歩んできた同時代人としての共感されることの多い一生であった。

【参考文献】
「청암 박태준」이대환 외. 아시아. 2012
「朴泰俊-세계최고의 철강인.」이대환. 현암사. 2004
「철강왕 박태준-경영이야기」서갑경. 윤동진訳. 한언. 2011
「강철왕 박태준」신중선. 문이당. 2013
「우리과학 100년」박성래. 신동원. 오동훈. 현암사. 2001
【論文】
「포항제철 초창기의 기술습득」송성수. 한국과학사 학회지 제28권 제2호 2006.
「한국 종합제철사업계획의 변천과정, 1958~1969 」송성수. 한국과학사학회지 제24권 제1호. 2002
【筆者紹介】
1953年 名古屋大学文学部哲学科卒業 60年、同校大学院終了。
1961年から朝鮮大学校で哲学、朝鮮哲学史、朝鮮文化史を担当。
朝鮮民主主義人民共和国 教授、哲学博士
現在、国際高麗学会 理事。この間大阪経済法科大学、立教大学、津田塾大学、東京都立短大などの講師を歴任。著書に、『朝鮮文化小史』(太平出版)、『朝鮮近代の開拓者』(朝鮮青年社)などがある。
「科学と未来」第15号に掲載