連載 ■ 韓国の財閥 第8回

 連載 ■ 韓国の財閥 第8回 

「ロッテ」の創業者・辛格浩

金 哲央

 「ロッテ」といえば、在日の同胞は「ああ、解放後、アメリカ進駐軍の兵士が日本中にばらまいて、みんなを夢中にさせたチューインガムを、いち早く日本で生産して大企業となった在日同胞の会社だろ、そして日韓国交正常化の後は、ソウルに有名なロッテ・ホテルを作り、日本語の通じる高級ホテルとして、日本からの観光客に親しまれているホテルを作った人という位は知っているよ。どうも早くから日本に帰化したらしいね」「名前は知っているかい?」「いや、聞いたことがないね」。
 以上のような問答が、在日の同胞の間で何度もくり返されたことであろう。それにしても、ロッテの創業者の名前や、その生涯については、これまで我々に伝えられる機会はあまり無かったのではないか。
 筆者も長く日本に住みながら、ロッテについて知ることが殆どなく、「韓国の企業家の列伝を紹介するならば、次にロッテの創業者について伝えてくれ」との希望もあり、少し調べたことを次に紹介する次第である。

 1、辛格浩の青少年時代

 その人は辛格浩。彼は1922年に慶尚南道蔚山郡サンナム面(現在サムドン面)に生まれた。霊山辛氏家の子供たち十人兄弟の長男である。
 それは日本の侵略により朝鮮が完全に植民地に転落して十二年目の年である。
 朝鮮は資本主義も帝国主義の段階に突入した日本による植民地化のため、封建制の要素を多分に残しながら急速に商品市場経済の支配する資本主義体制へと変質して行く過程に編入されることになったのだ。
 朝鮮が日本の植民地となる過程で、まず日本から大小資本が殺到し、さまざまな方法で土地を入手していった。その代表が東洋拓殖株式会社である。これは名目上は日韓合作会社ということになっていたが、総裁は日本人で、役員も大部分が日本人で占められ、資本金は一千万円、その3割が韓国国有地の現物出資とされた。それゆえ韓国帝室財産に組み入れられていた帝室の土地や全国の駅土などが現物出資されたのであるが、それらの土地を耕作していた農民はたちまち生活の手段を失うことになる。こうして東拓は朝鮮最大の地主となり、解放の日まで朝鮮農民の上に君臨することとなるのだが、この他、大地主としては東山農場、大倉農場、熊本農場などが続き、一方、零細な日本資本も「日の丸」の威光を背にし、高金利で零細な農民に金を貸し付け、抵当流れの土地を入手するばかりでなく、さまざまな詐欺や略奪など、あらゆる手段を使って朝鮮農民から土地を取り上げ、日本人はわずかな資金しか持たない者たちも、たちまち大地主になっていったのである。
 また、粗悪な商品を朝鮮に持ち込んだ商人たちも、朝鮮全国に浸透し、社会全体を商品経済の支配する市場に変質させながら、現金収入の手段を持たない人々の貧困化を促進させていった。
 現在、日本に在住する同胞の多くは、このようにして商品経済の網の目に巻き込まれ、いつの間にか借金が増え、ついに生活の手段である農土を失い、流民となって生活の道を求めて日本に渡ってきた農民の子孫であるか、または日本の侵略戦争の被害者として、強制的に徴兵され侵略戦争に狩り立てられたり、あるいは徴用されたり、生活の道を求めて来日した者たちの子孫なのである。

 辛格浩の少年時代

 このような歴史の大変動期に生まれた辛格浩であるが、その少年時代には、まだ、かっての良き時代の朝鮮が残っていた。大家族とはいえ、暖かい家庭と家族がおり、村人たちとの心温まる交流があった。
 家では次々と弟たちが生まれてきたが、学令になると父母は近くのサムドン普通学校(4年制)に通わせてくれた。
 少年期の彼は、特別に目立つこともなく、秀才といわれることもない平凡な田舎の少年であったようである。学業も中間の成績であった。学校から帰ると他の家の子供と同様、宿題より、まず黒い麦飯に、おかずといえば青とうがらしにみそをつけてかじりながら、白湯で麦飯を流し込むと休む間もなく、草鞋の足にチゲを背負い、裏山に登って、まず薪を一荷集めてきては、次いで牛小屋の牛を引き出し、あちらこちら草の生えている場所を探して食わせるのが仕事となっていたのである。
 こうして4年制のサムドン普通学校を終えた少年は父親と親族の助けもあり、往復3里以上も離れた6年制の彦陽公立学校への編入を許されたのである。教科書を風呂敷に包み背中に背負い、でこぼこの田舎道や新しく開かれた新開路を、毎日駆けるようにして通ったのである。時には新開路を走る日本人の車のガソリンのおかしな臭いをかぎながら、何時あんな車に乗ることができるだろうか、などと考えたことであった。
 この期間にも、民衆の生活はますます困窮の度合いを増していった。朝鮮総督府は植民地支配体制を強化するため、行政、立法、司法、軍事など一切の独裁権を持つ憲兵・警察力を背景に徹底した武断強圧政策が1919年の3・1独立運動による全民族的反撃を受けるまで続き、そして次に従来の「武断統治」を「文化統治」に改めると宣伝しつつ、いっそう巧妙な民族分断政策により、一方では親日派を養成し、かつ一方では良心的な民族主義者をも弾圧して、朝鮮をさらに政治、経済、文化的に皇民化させ植民地体制を確立して行くのである。
 多くの農民が土地を失い、小作農に転落するか、流浪民として都市の貧民窟へと流れて行った。旧来の社会が急速に解体されて行く過程に入って行くのだ。
 悪名高い「治安維持法」が公布・施行されるのは1925年5月のことである。
 辛格浩の家庭も、他の人々と同様、生活は困窮の苦しみを増して行ったのであろう。彼の住む蔚山地区も、他の地区と同様、人々の生活は破綻し、農業も漁業も零落し、新しい産業も育つ見込みはなかった。長男として、一家の前途をどうするか、彼は深刻に考えざるを得なかった。小学校を卒業した後、1941年に日本に渡る決意するまでの期間、故郷でどのように過ごしたか明らかにする資料はないが、責任感の強い長男として、彼は人に明かすことができない数々の苦労を重ねたと思われる。
 ついに1941年春、19才の彼は故郷での苦闘を打ち切り、日本帝国の首都東京で伸るか反るか、自己の運命開拓の道をそこに懸けてみようと決意するのである。
 国権はすでに奪われて久しく、自国の言葉も歴史も教えることを禁止され、姓氏改名を強要されて、すでに彼は名前も日本式に「重光武雄(しげみつたけお)」と変えていたのである。
 その「重光武雄」が釜山で関釜連絡船に乗る時である。
 「おい、一寸来い」、眼光鋭い一人の男が重光に声をかけた。「私ですか?何か用ですか?」「用があるから、来いというのだ。」重光青年の知的な顔立ちが悪名高い「特高」(特別高等警察)―かって思想犯罪、つまり社会主義、共産主義、無政府主義者などを取り締まる役割をした警察機関で、多くの社会主義者が彼らによって弾圧されたり虐殺された―の目に止まったのである。当時、関釜連絡船が朝鮮と日本を結ぶ唯一の通路であったので、「特高」は常にここに事務所を置き、少し知的な顔をして「主義者」となる可能性のある人間と判断すれば、執拗に取調べをし、荷物の検査をしてのである。
 後に日・韓産業界の大物となる重光武雄も日本に渡る最初の門出に当たって、釜山で彼らにより屈辱的な取調べを何時間も受けねばならなかった。
 日本への移住という「初の門出」に当たって、経験したこの屈辱は、彼に改めて「民族的な自覚」を呼び起こしたのであったが、また同時に、日本で安全に生活するためには、これからは自分が「辛格浩」であることを徹底的に隠して、日本人「重光武雄」として生きねばならぬと決意させたのであった。
 これ以来、彼は日本での波瀾の多い生活を経験しながら、彼は自身に関しては固く口を閉ざして語らないことを原則にしたようである。多くの紆余曲折を経ながら、韓国第一の流通・観光財閥となり、日本では最大の綜合菓子会社のオーナーに成長しながらも、彼はこの原則を守り、「秘密の多い人物」とされてきた。
 この結果、韓国では有名な人物とされながら、早くから彼について幾つかの疑惑が突きつけられてきた。それは、まず第一に、彼は早く日本に帰化したのではないかという疑問であり、次に、彼は日本人として韓国に投資しているのではないか、という疑惑である。
 これらについて、大方の伝記作家は、否定的な答えを出しており、彼はあくまで民族的主体性を守っているとしている。この疑惑について、自らは沈黙を守っているのであるが、彼の家族については、初婚の故郷で結婚した女性が死亡した後、次に結婚した女性が日本人の「竹森初子」とされていることも関連があるのかも知れない。しかし同時に、この女性から辛東主(トンジュ)、辛東彬(トンビン)という二人の男子をもうけているという事実も知られている。
 いずれにしろ、これらの諸事実を前提にしながら、彼の日本における「重光武雄」としての生活が始められたのである。

 日本における重光武雄の奮闘

 彼は家族の生活を改善するため、そして自らの人生を開拓するために、決意も新たに日本の首都・東京での生活を始めた。
 多くの朝鮮人が経験したように、牛乳配達、雑役夫、工場作業員、トラック運転手などさまざまな仕事をやりながら、同時に当時、日本人青年の最大の関心事である20歳での「徴兵検査」(これに「合格」すれば無条件に日本軍兵士となり、国の指示する軍隊に入隊し、戦争に動員されねばならぬ)に対処せねばならなかった。
 そして彼の選んだのは早稲田高等工業学校の夜間部への入学であった。夜間部であるために、入学志望者は多くなく、入学試験もゆるやかで、容易に入学でき、夜間であるため昼の仕事に就きながらも勉強もでき、かつ工業系の学校であるため20歳での「徴兵」も延期されるという優遇を受けることができた。(1943年3月、朝鮮に徴兵制公布、8月施行)
 重光武雄が渡日した1941年の年末の12月8日、日本軍はハワイ真珠湾攻撃、-米軍との戦争開始である。大本営が発表する「赫々たる戦果」に日本中が興奮し、酔い痴れる中、心ある朝鮮人たちは、あまりにも国力(生産力)の格差のある対米戦を開始した日帝の妄動に、「これで日帝の滅亡が近づき、そして朝鮮の解放の日も近づいた」と、ひそかに喜びあったものであった。
 良心的な人々が予想したとおり、半年後のミッドウェー海戦では「沈没したはずの米軍空母」が多数出現して、日本の主力4空母を沈没させ、これを契機として両国の海軍と空軍の戦力の格差は歴然となり、太平洋諸島に展開した日本軍に対する補給は不可能となり、数百万の日本軍は飢餓状態に向かうのである。
 同時に、太平洋諸島を再攻略した米軍のB29は、1944年11月24日、東京の初空襲につづき、翌3月9~10日の東京大空襲(22万戸焼失、死傷者12万名以上)をはじめとして、毎日2都市ずつを焼滅させていき、ついには日本の敗戦が確実になった後のヒロシマ・ナガサキに対する原子爆弾投下となるのである。

 このような過酷な状況下で、重光青年の前に現れた一人の日本人の老人がいた。以前から重光青年の真面目な生活ぶりに好意をもち、なんとか助力してやりたいと考えていた花光(はなみつ)という古物商の老人である。
 重光が早稲田高等工業に在学中から、機械生産に必要な旋盤カッティングオイルを開発する研究所で働き、その油の製造法を学んでいることを知っていた。
 彼が言うには、「軍需用機械生産のためのカッティングオイルが品薄だというではないか。君が工場を作ってオイルを生産するというであれば、5~6万円位なら貸してやってもいいよ。工場も当てがないなら俺が紹介してやるぞ。君の考えはどうなんだ」と言うではないか。何も考える必要はなかった。彼は直ちに行動を開始し、大田区大森に適当な工場を探し出し、オイル生産の諸機具をととのえて、生産を開始する準備はととのった。
 しかし、重光武雄に与えられた最初のチャンスは、もろくも一場の夢となってしまった。アメリカのB29の爆撃によって大森一帯の市街地は一夜にして廃墟になってしまったのである。
 しかし、これに失望し、夢を失ってしまう重光青年ではなかった。彼は花光老人に「もう一度チャンスを与えて下さい。」と頼み込み、今度は新宿から山梨県の甲府に向かう中間地点、軍都立川市の少し先の生糸の生産都市である八王子市の市街に小さな工場を見つけることができた。八王子は絹織物の産地として知られていたが、戦争の激化とともに、それは贅沢品とされ、それらの中小工場は軍需工場への転換が進められていた。コーティングオイルは機械生産に必要であり、これは軍需工場と認められたのであろう。彼は次のように言っている。
 「初めは、工場は順調でした。しかし一年半過ぎた頃、米軍機B29の空襲を受け、工場は全焼してしまいました。耐え難いことでした。資金を貸してくれた老人は『これも運命だ。お前も生きる道を探せ。わしは田舎に帰って百姓でもして暮らそう』と言ってくれたのですが、とにかく老人の有難い恩恵に何としても報いようと思いました。」
 八王子市への空襲は日本の敗戦の直前の1945年8月2日0時過ぎのことである。B29、169機が2時間にわたり大量のエレクトロン大型焼夷弾を効果的に落とし、市の中心街、陸軍幼年学校、八王子駅など市街の80%を全焼させた。(ただし宿場町の時代から有名な田町遊郭は除外され、日本敗戦後、米占領軍の兵士がここに押し寄せ行列を作ったという。)
 その後の急迫する戦況の変化は、人々のよく知るところであるが、米軍はB29による大都市への爆撃を継続する一方、地方の中小都市を計画的に、一日に2都市ずつ抹殺・焼滅させていった。
 以下、日本敗戦前後のいくつかの事実を列挙する。

 3月9~10日、B29による東京大空襲、22万戸焼失、死傷12万人、被災者100余万人。
 4月1日、米軍沖縄本島に上陸。6月23日、日本守備軍、住民を巻き込みながら全滅。
 6月8日、天皇臨席の最高戦争指導者会議で本土決戦の基本大綱を決定。
 7月26日、連合軍、対日ポツダム宣言発表。日本首相は黙殺・戦争邁進の談話。
 8月6日、広島に原爆投下。
 8月8日、ソ連、対日宣戦布告。
 8月9日、長崎に原爆投下。
 8月15日、天皇、「終戦」の詔勅放送。
 8月30日、連合国最高司令官マッカーサー厚木に到着。
 9月2日、降伏文書調印。
 9月27日、天皇、マ元帥を訪問。
 9月29日、各紙、この写真掲載、(国民に衝撃)
 10月10日、(朝鮮に比べてあまりに遅い)政治犯釈放。自由戦士出獄歓迎人民大会。
 10月15日、治安維持法廃止。

 一方、戦争遂行のため日本に連行された200万人を越える朝鮮人兵士、徴用者、労働者とその家族たちは、日本側の意図的な職務怠慢のため、これまでの報酬や諸手当を受け取ることなく、放置され、やむなく自力で故郷への帰還を図ったが、米軍の人権と常識を無視した現金千円以下、荷物数キロ以下の持ち出し統制に苦しめられた。いずれにせよ故郷へと急ぐ人たちは、解放の喜びと運命の不運をなげきながら、九州博多や山口県下関などの港に押し寄せたが、行政側の怠慢と誠意のなさにより、配船の見込みが立たず、私的に小漁船を買い入れて帰国を図る人も多かった。
 ただし、せっかく故郷に帰っても、働く職場もなく、無一文になって再び密航船で日本に戻る人も多かった。日本政府は、これら朝鮮人をこれまでの責任を負うことなく、勝手に「君たちは日本人でなくなった。あるいは第3国人だ」として非人道的、差別的に取り扱うことになる。
 日本政府の戦後より一貫している植民地支配に対する責任、戦争犯罪に対する責任の回避(ドイツとのあまりに明白な差異)によって、日本人の「品性」に対する国際的な疑惑の根元となっているその心性と政策は、依然として現在も継続されているのであるが。

 いずれにせよ、これら日本の敗戦にともなう情勢の大激変を、重光武雄はじっと沈黙で耐え忍びながら、起業のチャンスの到来を窺うのであった。

 化粧品製造による再起

 友人の中には「解放された祖国に帰り、もう一度初めからやりなおそうではないか」という人もいたけれども、家族の期待を担い、かつ故郷を捨てるようにして日本に来た身であるので、何かしっかりした成果なしには帰れない彼であった。
 また、自分を信頼して二度も融資してくれた花光老人を裏切って、そのまま帰ってしまうなど出来ないことであった。
 彼は「この大動乱の時期こそ、成功のチャンスなのだ。必ずやって見せるぞ」と決意を新たにして杉並区荻窪の古びた軍需工場の寄宿舎であったアパートの一室に「光特殊化学研究所」という小さな看板を掲げたのであった。1946年5月のことである。
 友人たちがやって来て「重光、お前、たいそう立派な看板を上げたものだが、一体何をやるつもりなんだ。また研究所とは何を研究するつもりなんだい。」
 これに対して重光の答えは、まことに真面目なものだった。「俺は敗戦直前まで旋盤用の油を作っていたから、そのコーティング油で石鹸や化粧品を作ってみようと思う。今は生活物資が不足しているし、化粧クリームは少量でも研究によっては高い付加価値を付けることが出来ると思う。見ていろ、やって見せるから。」
 彼は洗濯石鹸、化粧石鹸、ポマード、クリームなど、次々に研究を重ねて生産していった。応用化学を専攻した彼にとって、油脂を使って製品を作っていく工程は別に難しいことではなく、これまで使っていた大きな釜に油脂と凝固剤、さらに若干の芳香剤を製品の用途に応じて混合の比率を変えて行けば良いことであった。生産の工程は手工業的な規模であったが、適当な器や包装を工夫して製品を作れば、製品はたちまち飛ぶように売れて行くのであった。
 彼は納品と集金のために、一日に200軒もの商店を自転車で廻らねばならない有様であった。「研究所」の人員も、内部では生産工程と研究員、営業、経理などに分かれ、包装には付近の家庭の主婦が多数動員されたのである。
 このように活気に満ちた1年を過ごした重光青年は、ついに花光老人から借りた6万円を全額返すことができた。好景気が続いており、店主たちは製品の出来上がりを待ちかねて、前金を払い、「商品が出来たら、すぐに知らせてくれ、受け取りに行く」という商店主も出てくる状況であった。
 このような化粧品に対する飢餓感は、平和を回復した中で、人口の半数以上を占める女性たちの美に対する本能的な願いが、いかに根強いものであるかを語っている。
 この頃のことを重光会長は、後に次のように語っている。
 「戦争が終り、花光老人にどのように報いようか考えて、化粧品生産を始めて、1年半を過ぎ、6万円の借りを返し、花光先生には家を一軒買って差し上げました。事業を始めた以上、どうしても収入を増やし、花光老人にどのように報いようか考えてきたのです。」
 重光青年は、自身の挑戦精神とアイデアによって成功を収めたことも嬉しいことであるが、これを通じて事業の妙味というものを体得したのであった。すなわち事業の勝敗を決定する鍵とは、第1に、時宜に応じた商品の開発であり、第2に、需要をいち早く読む市場把握力、第3に、アイデアを果敢に実現させる推進力だ、と判断したのである。こうして彼は事業を本格化させ、ヤミ市で化粧品を売って稼いだ資金を元手に、彼が26歳のとき、資本金100万円で株式会社「ロッテ」を設立した。当時の社員はわずか10名であった。
 1947年、彼は日本から韓国を訪問する有名な人に頼んで、自身の近況を伝える手紙とともに、大人の掌ほどの大きさの金塊2個を故郷の父親に送った。この時、幼かった長男が異国の地に渡り、血の涙を流しながら稼いだ金の結晶である金塊を受け取った父と母は、あまりの嬉しさに夜を明かして涙を流したと、村の人々は今も伝説のように語り伝えている。

 チューインガムとの運命的な出会い

 ある日、友人が重光の工場を訪ねてきた。彼はポケットから英文包装のチューインガムを出して、「おい重光君、これをチューインガムというだが、噛んでごらん。米軍の兵隊から貰ったものだ。」
 重光青年は言われたように紙を破り、小さなガムを口に入れて噛んでみた。何とも言えぬ口当たりの良さと同時に、これまで味わったことのない初めての芳香と甘さが口中を満たした。噛めば噛むほど、その香りと甘さが口に拡がり、これまで味わったことのない快感が、自らの噛む動作と共に反復されるのだ。小さな恍惚感が脳を満たすようであった。甘さといえば、むかし少年の頃、大切に貯めておいた小銭で、村に廻ってくる飴売りから鋏で切ってもらった飴とも違うスッキリとした味なのだ。そしてその味が5分も10分もつづくのが驚きであった。
 「ガムとは、こんな面白い菓子なのか。子供たちが夢中になるのも尤もだ。」
 重光青年とチューインガムの運命的ともいえる出会いであった。
 これが「商品」になると直感したとき、彼はただちにその実現に向けて、原料とその製法の探求へと精神を集中するのだ。
 原料は、ガムベース、糖類、香料および添加物の4成分から成ること、チューインガムの20~30%を占めるガムベースも重要だが、糖類はチューインガムの60~80%を占め、その主成分を形成するとともに、咀嚼により溶けて甘みを出す主体となる。しかし香料は0,5~2%程度の添加量であるが、この%は菓子類の中では特に高いものであり、「香りの菓子」と呼ばれるチューインガムの香味を決定する重要成分であること、4番目の添加物には軟化剤、着色料、香味料などが含まれることが分かった。
 原料の第1番目となるガムベースは咀嚼基礎剤といわれるが、それには天然樹脂(植物性樹脂)と酢酸ビニール樹脂、合成ゴムなどがあり、敗戦国の日本では天然樹脂は入手困難でありことが分かった。しかし彼は天然チクル(アカテツ科、産地メキシコ、ガテマラ)の入手先を見つけ、これが彼の作るガムのキャッチフレーズになった。
 2番目の糖類は砂糖、ブドウ糖、水あめなどがあり、これは努力次第で入手できそうである。
 3番目の香料は、主に油性香料でミント系、フルーツ系、スパイス・ハープ系があることが分かった。
 4番目の添加物であるグリセリンや酸味料、着色料などは何とかなる筈である。
 このような調査と試作品の準備に熱中している頃、他の友人が戦後、日本で作った風船ガムといわれるものを持ってきた。アメリカ製のガムより量も多く、噛むと安手の甘みが鼻をつき、それもまもなくなくなってゴム成分が残る。そのゴムを巧く風船のようにふくらませて遊ぶのである。彼は、これは子供相手のオモチャであり、一時期、子供たちの人気を得て流行するかも知らないが、奥の深いチューインガム本来の魅力とは異なるものであり、長続きする嗜好品となりえないものだと判断された。主力はアメリカ製のチューインガムに迫ることに定めて、さらに良質のガムの生産を目指して睡眠時間さえおしみ、人知れず汗と、時には涙を流して働いたのである。また、彼は自社製品の質の向上のため、高給であった薬剤師も雇い、製品の向上に努めたのである。
 当時、日本国内には400近くのガム会社が乱立して一攫千金を狙っていたが、なかでもハリスはガム業界の横綱といわれており、1952年の時点で全国ガム市場の40%を占めていて、どうしても彼の会社はハリスを追い抜くことができなかった。(ハリスは酢酸ビニールを主原料にしていた)
 しかし彼の会社「ロッテ」は、自身のアルバイトの経験を活かし、主婦のパートを起用してセールスの表舞台に登場させ、ガムとは無縁であったタバコ屋にガムを置かしてもらうことにより販路を拡大するなど、地道な末端販売を拡大して、着実にハリスとの差を縮めていった。
 工場の労働力には大学生のアルバイトを動員し、彼らにはアルバイト料の他に、惜しみなく奨学金を与え、この奨学金制度は今日もつづいている。
 1961年、重光青年はある奇策を思いついた。ロッテはガムの外箱100円分を一口にしてロッテに送ると、抽選で特賞1000万円が当たるという懸賞広告を大々的に新聞に発表したのだ。当時の1000万円とは現在の1億円以上の価値があり、人々は先を争ってロッテガムを買い求め、またたく間に760万口の応募がロッテに殺到したという。
 これは公正取引委員会で問題となり、以後このような大型懸賞金は「不当景品防止法」の対象となるとされたが、この騒動を契機にロッテはガムの売り上げを飛躍させ、ハリスを圧倒することになった。

 ガムの丘を越え、チョコレートの高地へ

 ガムの業界で覇権を握った彼は、菓子業界で伝統的な世界の高地であるチョコレートの世界へと夢を拡げることになる。彼は「チョコレート界の覇者こそ、菓子業界の覇者である」との標語をかかげ、日本経済の高度成長期の今こそ、ロッテの一層の発展の契機として、世界の水準を凌駕する水準の高いチョコレートの生産を目指したのである。
 この新しい高地の占領のため、重光社長は中堅幹部二人をヨーロッパに派遣し、当時のチョコ市場の視察と、さらにヨーロッパを代表するチョコレート技術者のスカウトと新鋭設備の購入を指示したのであった。
 また、日本におけるチョコ市場には特殊な事情もあった。日本の夏は亜熱帯の温度と共に湿気が高く、カカオ豆とバター、ミルク、砂糖の微妙な調合の綜合品であるチョコには千変万化の味の変化が生じるのである。すなわち製品の状態の安定に特別な配慮が必要なのだ。
 「われわれが作る一粒のチョコは、単なるお菓子ではなく、作る人の涙の結晶した宝石なのだ」と、あるチョコ工場長の言ったという言葉に、この業界の共通の悩みが込められている。
 ヨーロッパに派遣された二人は、工場の見学、市場調査、チョコ製造技術者に対する了解などなどと、社長の信任に答えるため大きな努力を払った後、チョコレート新製品の鍵を握る技術者として、スイス出身の技術者であるマックス・ブラック氏を選んだ。チューリッヒ大学機械学部出身でスイス、オーストリア、フランス等の有名なチョコ工場の技師として活躍し、工場長としての経験も豊富な人で、ムッシュウ・ブラックといえば、この業界の一流人士の一人である。
 彼が日本に来て、重光社長と会った時の会話が知られている。「社長はどんなチョコを作ろうとされるのでしょうか?」
 社長いわく「私たちがあなたをスカウトした以上、新設工場の設計より原料選択など、すべてをあなたに一任します。生産原価がどんなであろうとも、かまいません。費用を惜しむことなく最高の品質を創ることに専念して、スイス製品に劣らぬ優れたものを作って下されば良いのです。」
 経済性を重視するヨーロッパで経験したことがない、この信任の言葉に感激して、彼は言った。
 「わかりました。これまでの経験と新しい研究で、最高のものを作って見せましょう!」
 そして、また重光はヨーロッパでまだ稼動していない最新の機械設備の研究が終わっていた彼の設備を、日本で初めて組み立てることが出来たのである。これも重光にとって幸運であった。
 このような努力の結果、チョコレートの部門でもメイジ、モリナガに水を開け、トップに立つことが可能になった。

 「企業家はその事業によって伝記を語る」という方針

 これまで辛格浩(重光武雄)が、日本帝国の敗戦によって、朝鮮の「解放」を迎えながら、故郷へ帰ることなく日本に踏み止まり、起業を起こして家族に豊かな生活をさせたいと考え、まず化粧品の生産と販売によって「ロッテ」という会社を作り、つづいてチューインガムの製造・販売によって大企業になり、次いで菓子の高峰であるチョコレートの製造によって、日本の製菓界を代表する大企業になったことを見てきた。
 この間、重光青年は企業における大きな成功を重ねながら、さまざまな質問があったであろうが、プライベートなことについては一切、沈黙を守り、「企業家はその事業において伝説を語る」という方針を貫いたのである。
 伝記といえば、少年時代の性格やエピソード、家族や父母兄弟、交友での特徴、異性との関係、学校生活、その後の社会活動などの情報より成り立つであろうが、重光武雄はこれらについて固く口を閉ざしてきた。
 ただ自然に漏れてくるプライベートないくつかの事実については、次のようなことが知られている。まず時期は確かでないが、同族の女性と結婚したらしく故郷で育った娘がいること(長女ヨンジャ(영자)氏、現ロッテ福祉財団理事長)。その後、日本で生活しながら初子という女性と結婚し、長男東主(동주)と次男東彬(동빈)氏がおり、それぞれ副会長として日本と韓国における事業の後継者となっていることなど。
 健康の秘訣について聞かれると、それには答えざるを得ず、次のように述べている。
 「大した健康管理法はありません。朝起きると庭で草取りをし、ゴルフのスイング練習を40分ほどします。そして毎週一回ゴルフ場に行きますが、一時はハンディが12位でした。」
 彼が所有する立派なゴルフ場があって、ここに彼は交際を希望する日本の政財界人を招待して交流していることが知られている。政界では岸信介元首相などとの深い関係も知られている。
 一時は日本のゴルフ場の会員権を200も持っていたようである。ゴルフを通じての交流の手法は、その後、韓国への進出の時にも活用された。
 飲食については、次のように答えている。「韓国料理や日本料理はよく食べます。酒は昔はよく飲みましたが、近頃は殆ど飲みません。タバコも若い頃はひどい愛煙家でしたが、一切やめました。かっては人参酒も好きでした。」
 その後の日本におけるロッテの企業としての成長はよく知られている。ガム市場の70%を占めるロッテ製菓をはじめとして、不動産、電子、プロ野球球団など、ロッテ・グループは食品部門にとどまらず、多方面に手を拡げ、現在、日本の経済界に確固とした地位を築いている。

 2、韓・日両国間の橋渡しの役割

 韓・日の国交正常化は、新生日本にとっても、解放された経済再生を目指す韓国にとっても、また、この二国に軍事基地を置き、社会主義諸国との冷戦に対処せねばならないアメリカにとっても緊急の課題であった。
 また、企業を拡大し、故国に対して何かせねばならぬと考えていた重光武雄(辛格浩)にとっても重要な課題であった。
 辛格浩はすでに1958年に一度本国投資を試みて手痛い失敗をなめた苦い経験があったけれども、1960年代に入って日・韓正常化交渉が本格化するに従って、自らの本業である投資と企業拡大の絶好のチャンスとして、この交渉に深い関心を払い、注目して来た。
 当時、クーデターによって政権の座についた朴正熙政権にとっても、北の社会主義的経済の建設に対して、社会経済的混乱がつづき、経済的成長が切実に要求されえる韓国にとって、両国の国交正常化による日本資本の導入は緊急の課題となっていた。経済の開発のために外国資本の導入が必要とされ、日本在住の辛格浩に対しても、何度も勧誘がなされた。朴正熙大統領は、懐刀である金鐘泌を日本に派遣する時は、在日財界人の代表格である彼に会い、投資の協力の要請をしたという。
 当時、韓国では日本による植民地支配に対する補償や戦時賠償として経済的価値を獲得せねばならないという主張が根強かったが、朴正熙政権は、そうした名分にこだわらず、請求権という法的権利の問題に限定して、日本が韓国に支払う経済的価値の名目と金額に関する具体的な交渉に重点を置き、外資の導入をはかったのであった。
 この過程で日本側代表の歴史的反省のない妄言がしばしば飛び出し、関心を持つ諸国民の顰蹙(ひんしゅく)と韓国民の憤激をかい、交渉はしばしば中断した。この交渉の過程で明らかになった日本当局者とその子孫による彼らの犯行に対する反省になさは、現在もつづく彼らの「歴史的認識」問題として世界の人々に広く知られることになった。
 しかし辛格浩は、朴正熙大統領と同じ意見であり、「韓日国交正常化と対日請求権の速やかな妥結は必ず解決せねばならない宿題であり、それは早ければ早いほど良い」というものであった。
 彼は後に、この両国代表による交渉過程での自己の立場について、次のような回顧をしたことがある。「いくつかの経路によって韓日会談の両方の代表と面識ができた後は、双方の代表を同席させる役割をしましたし、その機会が重なると、双方の難題や微妙な問題について、私を通じて意見を摺り合わせることもしました。そのようなことをしながら、これまで心に背負ってきた荷物を一つずつ下していくような気分になったし、これまで忘れていた故国に対する私なりの恩返しをしたようで嬉しく思いました。」
 結局のところ「謝罪」を避けたい日本側と、一日も早く「経済的効果」を求める韓国側は、韓国側に請求権を放棄させる代わりに、相当額の無償援助を提供するという「経済協力」方式で請求権問題を解決することを方針としながら、さまざまな紆余曲折を経て、1965年6月、日韓基本条約が調印され国交が正常化されたのである。
 辛格浩は、この国交正常化を祝い、それまで無かった青瓦台の冷暖房施設の提供を申し入れた。朴正熙大統領への尊敬に基づく行為であった。(これは後日、彼の企業の韓国進出に大きなプラスになったことであろう。)
 両国国交正常化交渉で裏方として働き、日本で朴正熙の経済開発を支持する支え木の役割を果たした辛格浩は、その後、日本資本の韓国進出に際して、韓日双方の事情に精しい人物として助言を求められることが多くなった。
 そして、彼自身も再び韓国への進出を本格的に計画し、実行に移していくのである。

 困難を乗り越え韓国へ進出

 辛格浩は1965年12月、韓・日の国交正常化以後、本格的に韓国への投資を進めた。初めは鉄鋼業界への進出を希望したのだが、それは事情があって巧く行かず、結局、日本で成功を納めた製菓業での韓国への進出を決めたのである。
 1967年、辛格浩会長は3千万ウオンを投入して、韓国ロッテ製菓株式会社を設立した。

 辛会長は韓国ロッテ社長でありながら、代表理事会長として、長年の友人であり、韓国政界に太いパイプを持つ柳彰順(元韓国銀行東京支店長、元国務総理)を指名し、以後は一年の半分ずつを韓国と日本で過ごすという、日韓ブリッジ経営をはじめたのである。
 柳彰順会長も以後14年間、韓ロッテの成長に大きな成功をもたらした。
 設立当時、ロッテ製菓は社員が500名程度の小さな会社に過ぎず、辛会長も今日のロッテ財団の大きな成長を想像できたであろうか。
 辛会長は70年代に入り、ロッテ製菓の類例のない成長を足掛かりに、本格的な対韓投資を開始する。70年代に入ると清涼飲料、ロッテハム、ロッテ牛乳、ロッテ酒造、ロッテ畜産、ロッテリアなどと急速に業績を伸ばし、国内最大の食品企業となっていった。
 その後もロッテ・グループはロッテ機械、ロッテ電子、チルソン・サイダー、平和建設、湖南石油化学などの企業を設立、または積極的に買収合併(M&A)して、またたくまに20以上の関連企業を抱える巨大企業集団に成長したのである。 
 なかでも1億数千万ドルを投入して1975年に着工された地上38階建てのロッテ・ホテルの建設は、辛会長が心血を注いで建設したもので、地元の反対を受けながらも朴大統領の政策的支援を受け、5年がかりで完成した国家的プロジェクトであり、今日もなお韓国の誇る国際的ホテルとして、広く世界の人に利用されている。
 さらにロッテ・グループの新規事業は止まるところを知らず、89年には巨大な金額を投入して完成させたロッテ・ワールドをはじめ、ロッテ百貨店、釜山ホテル、プロ野球球団ロッテ・ジャイアンツなどと、1983年に設立されたロッテ・グループ中央研究所、流通産業本部など、今日なお新規事業を拡大している。最近出来上がったモスクアのロッテ・ホテルはロッテの国際的な広告塔の役割を果たしている。

 ロッテ・グループ成功の鍵

 現在韓国ロッテ・グループは、食品、流通、観光、石油化学、建設、製造、金融部門、サービス・研究・不動産部門、ロッテ・ジャイアンツ球団など80近い多様な系列企業に8万余名の社員を擁して、韓国30大財閥中の第5位~第7位に位置している。

 またロッテ・グループは積極的に海外に進出して、アメリカ・中国・台湾・タイ・ベトナム・マレーシア・インドネシア・フィリピンにも企業体をもつ多国籍企業となっている。
 日本で成長した財団が、本国でこれほどまでに成功を収めたのは何故だろうか。生産高は日本のロッテ・グループの10~15倍という。
 それはまず、本国への投資に際して日韓国交正常化という絶好のタイミングを利用できたこと。次に、辛会長が在日コリアン企業の特権を生かして、日韓の金利格差を利用できたこと。すなわちロッテの信用で調達した低利の資金を、貸出金利の高い韓国で有利に運用できたことである。第3に、巨大プロジェクトの推進に当たって、本国政府の権力者のバックアップを受けることが出来たこと。当時韓国は経済建設のために外資の投入を渇望していたのである。そして第4に、辛格浩自身の優れた経営能力と会長と創意と活力ある社員たちの一団となっての成長のための努力のたまものと言えよう。辛格浩自身も母国と家族に対する厚い愛情に基づいて経営発展のため熱情を注いだのである。
 辛格浩の企業に対する熱情は、その後継者に立派に引き継がれているようである。
 なお、1971年、彼は保守系政治家として知られている岸信介氏と親交があり、その仲介でロッテ・オリオンズ(現千葉ロッテ・マリーンズ)のオーナーに就任している。

 ロッテ・グループの後継者

 日本におけるロッテ・グループは製菓を中心として多面的な活動を展開してきた。日本においては会長はあくまで重光武雄であり、企業の役員にもなるべく同胞は登用していないようである。
 日本のロッテ・グループの後継者は、かなり前から長男の辛東主(重光宏之)が副会長としてグループを率いていた。
 1954年東京で出生。1976年、青山学院大学理工学部・経営工学部卒業。1978年、同大学院経営工学修士課程修了。1978年、三菱商事に入社。1987年、ロッテ商事入社。1988年、同社取締役。1991年、株式会社ロッテ常務取締役。2001年、取締役副社長。2009年、ロッテホールディングス取締役副会長。ロッテ国際奨学財団理事長。2011年、ロッテ商事代表取締役副会長兼社長に就任。(初めてロッテ社長交代)
 次に、韓国におけるロッテ・グループの責任者は次男の辛東彬(重光昭夫)副会長であるが、ロッテの資本が重光武雄ではなく、韓国人辛格浩とその次男であることを説明するため、若干の経歴が明らかにされている。
 1955年、東京で出生。青山学院付属幼稚園、同学院小・中・高校を経て同学院経済学部を卒業。その後、米国コロンビア大学院修士課程を修了した。つまり幼年期より銀の匙をくわえて成長したしたわけである。スキーやゴルフを好み、好酒家である。1981年4月より1988年まで野村證券に勤務し、多くをロンドン支店で過ごした。1988年、日本ロッテ商事に入社、1990年湖南石油化学の常務に就任した。
 また、1991年、ロッテ・オリオンズ(現千葉ロッテ・マリンズ)の球団社長代行として、球団を千葉マリンスタジアムに移し、名称も千葉ロッテ・マリンズに替え、気分を一新したし、1995年に球団代表理事となった。
 1995年、ロッテ・グループ企画調整室副社長を経て、1997年、韓国ロッテ・グループ副会長となって、事実上後継者の地位を固めた。また、中国、インドネシア、マレイシアなどの同企業の責任者となったが、2011年、21年の勤務を経て、ついにロッテ・グループ会長に就任した。
 夫人は大成建設の副社長の娘で旧姓、大郷真奈美。また彼は早くから安倍晋三氏と親交があることが知られている。
 前会長の辛格浩氏は、まさに伝説的で天才的な企業家であるが、息子にいつも次の三つのことを言い聞かせているという。
 「傲慢な振舞をしないこと」、「積極的なことは良いが、軽率な行動はしないこと」、「安住すると立ち遅れるぞ」、また、「事業の成敗はタイミングにかかっている。よく判断しなければならない」。
 ある役員は「辛格浩総括会長は、まだ元気で〈夢〉と〈未来〉を話す。辛東彬会長は父親のビジョンを受け継ぎ、ロッテ・グループの体質をグローバルに変えるだろう」と語った。

 さて、以上述べたように、ロッテ・グループや現代など韓国の産業界を代表する数十の財閥企業家グループが、韓国の経済の柱となって、韓国国民の創造力と活力を結集して、この半世紀、朝鮮半島(韓半島)の南部の韓国だけで世界の、GNPの順位を10位以内に押し上げたのである。これは朝鮮史でも、かってない驚くべき大きな成果であるといえるが、今後、南北の両国が合意して「連邦制」を目指す「南北経済交流の時代」に踏み出すことが出来るとすれば、果たしてロッテ・グループはどんな役割を果たすことが出来るであろうか。注目したい。

参考文献

「청년 辛格浩 – 더 멀리 더 높게 본 경제영웅」서진모 지음 이지출판 2010
「롯데와 신격호 – 도전하는 열정에는 국경이 없다」임종원 지음 청림출판 2010
「〈在日コリアン〉ってなんでんねん?」朴一 講談社 2005
「〈在日〉という生き方」 朴一 講談社 2000

「科学と未来」第14号に掲載

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