連載 ■ 韓国の財閥 第7回
LGの創業者・具仁会の企業活動
金 哲央
蓮庵・具仁会(1907~1969)は封建国家である朝鮮王朝の衰亡期に生れ、日帝による朝鮮植民地化の時期を生き抜き、祖国の「光復」とアメリカによる軍政、朝鮮戦争の苦難を経験しながら、韓国の急速な経済成長を現代科学技術の先端部門―とくに化学と電機の2部門で支え、国民生活の様相を、前近代的なものから先進的な現代的生活へと転換させるほどの変化をもたらす多様な商品を生産しつづけて来た韓国最大規模のLGグループを形成した先覚者的な企業家であった。
韓国財閥のトップ・グループは現在、「現代」、「三星」、「LG」の3大財閥から成るといわれているが、この3大財閥は戦前にその源流を形成した古い歴史のある財団であるといわれている。今回は、その一つ、「LGグループ」の創業者・具仁会の生涯と活動について簡潔に見ることにしたい。
1.蓮庵・具仁会の生涯
1)幼年期と時代的背景
蓮庵・具仁会は今日のLGグループを創業した企業家である。早く慶尚道の地主から商業家に脱皮し、さらに産業資本家として進出した20世紀を代表する企業家である。
彼は1907年8月27日、慶南晋陽郡智水面勝内里に、年収300石程度の地主であった具再書の長男として出生した。幼名をチョンドク(정득)といい、蓮庵は雅号である。祖父の晩悔・具然鎬は、科挙に及第して弘文館校理となったから、人はその家を旧校理宅と呼んだ。
晩悔は経筳庁や春秋館の記注官となり、王の前で経書を講読して、高宗に近く仕え、その愛顧をうけた。
蓮庵の幼年の時期は、20世紀の初期にあたり、わが国の国運はまさに風前の灯のごとき状態であった。
まず1907年(丁未年)日帝による高宗の退位があり、純宗の即位となり、年号が隆熙となった。1908年には、わが国収奪の前哨基地の役割をになう東洋拓殖会社が設立され、1909年には、安重根義士がハルビン駅頭で朝鮮侵略の頭目である伊藤博文を射殺する事件が起った。
さらに1910年、日本による強制合併が行われ、植民地となったわが国は、以後30余年、政治、経済、文化の各方面で暴力的な植民地政策が強化され、憲兵による統治が強行されて、抗日独立闘士とその運動が弾圧される暗黒の時代であった。蓮庵はこのような時期に人生の初期を迎えたのである。
2)少年期と教育の過程
蓮庵・具仁会は祖父の下で漢学を学んだ。
13歳となった1920年、近くに住む大地主、許万寔の娘と結婚する。具家と許家の関係は、これが初めてではなく、祖父具然鎬の3番目の娘が許万寔の次男に嫁いでいる。具仁会は幼い時から然鎬、再書の下で伝統的な書堂の教育を受けていたが、1921年慶尚南道に普通学校(後の智水普通学校)が設立された時、妻の兄であり、後に中外日報の経営者となる許善九の勧めにより2学年に編入し、近代的教育を受けることになった。後に許氏との共同といわれる経営がはじまるのは、具家と許家とが姻戚関係があったことによるが、このような生い立ちの環境から条件が整えられて行ったのである。
3年間、普通学校で初等教育を受け、つづいてソウルの中央高等普通学校に進学して、2学年の時、中退して帰郷したのであった。
当時、中央高普は高麗大学校の設立者である仁村・金性洙が経営者となり、強力な民族精神にもとづいて教育を行う学園であった。
田舎者の具仁会青年は、入学してすぐ読書グループに入り、これまで聞いたこともない東西古今の名著に接し、次々と読破することになった。この時期、彼が読んだ書物がどのようなもので、その数はいかなるものであったかは、いま明らかでないが、後日、その人生を豊かにする土台となったことは明らかである。
それでは、なぜ彼が中央高普を2学年で中退することになったか、それには二つの理由が考えられる。
一つは、学費を出してくれた義父が死亡し、ソウルの留学生活が困難になったことと、第二に、保守的な祖父の、ソウル留学を中止し、この機会に帰郷せよとの指示によるとの述懐がある。
しかし、ある研究者によれば、彼の中退は、この二つの理由もあるであろうが、その年、長男の滋暻が生れ、家長としての責任感もあり、19歳になり社会人として自立したいという気持もあって、学業を中断したのではないかと思われるという。(金柄夏氏)
3)青年期と協同組合
19歳の青年、具仁会は家に帰ると、押さえ切れない野望をかかえ、村の奨勤会を利用し、消費協同組合運動を展開する。
当時、村には村上というソロバンの巧みな商人が雑貨店を開いていた。蓮庵は、これに対抗して消費協同組合の運動を展開しようと、村の人々に、協同して石油、セッケン、木綿、絹織物を買い入れれば、村上商店より安く品物を買うことができると説いたのである。
これが現実となって、1929年には智水協同組合が組織され、彼は理事長に選出されることになった。彼は協同組合を運営することにより、木綿の流通経路やマーケッティングの手法を理解し、また同時に、東亜日報晋州支局長となり、活動範囲を広めたばかりでなく、マスメディアに対する関心を高めることになった。
彼は新聞を熱心に読み、同時に、1927年から始まった京城放送局によるラジオ放送にも耳をかたむけ、見聞を広めたのである。
この協同組合の活動に3年の間、熱中したのであるが、彼は次第に、この村の協同組合はあまりにも活動範囲が狭く、自らの野心を満たすために、もっと広い所で仕事をしたいと考えるようになった。
こうして彼は晋州に進出して反物商を経営することにした。
4)青年期の商業進出
①「具仁会商会」開店
彼の最初の商業活動は「反物屋」であった。その動機は、次のように考えられる。
当時、晋州は流行の街であり、消費の街であった。街に人々が集まり、豊かな人でにぎわった。妓生も多く、金持ちの夫人たちも絹織物や外国製の衣服に関心が深かった。
また、街では士農工商の身分的な差別意識も薄くなり、経済的関心が強くなっているので、商機が充分にあると考えたのである。
彼は智水協同組合と付き合いのあった晋州の千鐘万という人の千鐘商店をたずね、反物屋経営についての知識を集め、父に自分の希望を伝えたのである。祖父をはじめ具氏の家族は、依然として商業を下に見る傾向があり、始めは反対したのだが、度重なる願いに折れて、父から2千円の資金を得ることができた。しかし、これだけでは商売には不足であった。そのため富裕な家に養子に行っている弟の哲会に会い、あれこれと相談にのってもらった。哲会とは気が合って、一緒に商売しようということになり、合計3800円の金を確保できた。
こうして晋州市内の二階の建物に「具仁会商店」という看板を出すことができた。時に1931年7月、彼の25歳の時であった。
蓮庵は協同組合を運営しながら反物の需要と流通について緻密な調査にもとづいて仕事を始めたとはいえ、小規模の個人商店の運営は容易なことではなかった。
1932年11月、気持を変え、新しい店舗に移ったのであるが、翌年3月の決算には500円の赤字であった。当時、米1かますの価が4円56銭であったから、何と米100かますを越す損失であった。この時、彼は父親を説得し、父の所有する土地を担保として銀行から8000円の融資を受け、経営規模を拡大したのである。
彼は代金をまけない代りに、物差しを正しく使って、人の信用を得るようにし、反物の需要の少ない時に問屋で安く仕入れ、需要の多い時には高く売ることで、利益を上げて行った。次第に商売のこつを覚えて行ったのである。とくに農作物の作柄の多少によって、反物の売れ行きが大きく左右されることを覚り、降水量と田植の実績などを注意深く見守り、反物の売れ行きを予想したのである。
1936年7月の南江の大洪水の時、全市街が水没し、具仁会商店も被害を受け、やっと屋根に登り避難する状況で、千鐘万の商店も水没した。しかし、蓮庵は全財産が失われても絶望することなく歯をくいしばって、お得意と問屋からの信用、これまでの経験、自らの挑戦的精神をもって再起を誓ったのである。
彼は大洪水の後には必ず豊作になることを見越し、かつ反物の需要の上昇を予想して、米2000かます分に当る1万円の融資を受け、反物を買い占めておき、秋の豊作時に売りさばき、多くの利益を上げたのであった。
翌年、1937年、中日戦争開始の時も、戦時の特殊景気を予測して2万匹を買い占めて、一挙に8万円の利益を上げることができた。当時、上等の田が坪25銭程度であったことを考えると8万円の利益がいかに巨額であったか理解できよう。
彼は、また客の好みに応じて、反物の染色や加工に気をくばり、売上の増加をはかり、経営を拡大して行った。
開業して何年も経たないのに、基盤を固めた彼は1936年11月、晋州商工会議所議員となり、晋州における新興商人として広く名前を知られるようになった。
②革新的な貿易業に挑戦
反物商として具仁会商店が繁盛している1940年6月、彼は経営の領域を広げるために商号を「株式会社 具仁商会」に変更し、株式を発行するなど、近代的経営体制を整えて行った。
事業家として基盤をととのえた彼は、視野を広げ、貿易業への投資のために、まず、1937年春には、妻の弟の許允九の経営する鮮満物産に投資を始めた。
許允九は日本の早稲田大学経営学部出身で、当時、満州地方を対象に、にんにく、明太などを輸出し、大豆などを輸入していたのだが、彼は、この機会に満州を視察して交易につき研究を進めたのであった。
とくに満州一帯に日本軍が進駐しているのを見て、中日戦争の勃発を予感し、反物2万匹を買い占めするなど、新しい事態に備えたのであった。
貿易の拡大のため、彼はまた、絹織物の本場である日本の福井を視察するなど準備をしたが、日中戦争が始まった1937年7月以後は、日本による経済統制が強化され、自由な織物供給の道も閉ざされ、貿易も次第に困難となって行った。
とくに1939年11月、企業整備令が公布され、1940年2月には創氏改名制度が強制されて民族企業への植民地的搾取が強められて行った。彼は具仁商会の社長として事業の転換を模索せねばならなかった。とはいえ、この頃、具仁商会の預金残高はすでに40万円に達していたというから、彼の事業手腕の高さを如実に物語っている。
戦時体制の強化とともに、日帝は民族商人に圧迫を加え、貿易業は断念せざるをえず、彼は統制のゆるやかな青果物および海産物商に投資することにした。当時、外叔(母のおじ)河吉生が水産物商をいとなむ河信商業株式会社を経営しており、水産物にまで日帝の統制が及んでいなかったので、この部門へと考えたのである。
彼は河信商業に投資するかたわら、80トンの船を買い入れて水産物と青果を運送したのである。
具仁商会の仕事は東京高等工業学校を卒業し、平安南道の道庁土木課に勤めていた弟の具貞会にまかせ、彼自身は晋州青果物組合代表となり、青果と水産物の事業に熱中した。しかし、戦火は「太平洋戦争」へと拡大して、これらの事業も限界を感ずることになった。
この時、彼は土地への投資を決意したのであった。土地は具仁商会の利益金から、以前より少しずつ購入していたが、この時、日帝の滅亡を予感したのであろうか、預金をすべて引き出し、晋州周辺の晋陽、宜寧、咸安、固城などの大量の土地を入手して、万石家(大土地所有者)となったのである。
5)解放と朝鮮興業社の設立
1945年、祖国は光復を迎えた。日帝の戦時体制により萎縮していた経済活動も少しずつ活動を始めていた。
新時代を迎えた具仁会も、新しい出発を決意し、より広い活動を求めて計画を練った。
こうして彼は晋州の具仁商会を閉じ、帰国同胞と米進駐軍のひしめく釜山に活動の場を移したのである。
彼は土地の一部を処分して、9月には釜山の中央部である中区の西大新洞の敵性家屋(日本人が住んでいた家屋)を購入し、貿易業を主とする朝鮮興業社を設立し、米軍政庁の許可を得た。これは解放以後、韓国における貿易業許可の第1号となる歴史的なものであった。具仁会は、こうして小商人的、地主的企業家から脱皮して近代的企業家となるのは8・15解放以後のことであった。
この時、許万正は三男の準九を朝鮮興業社に入社させ、自身もこれに投資して、以来、具家と許家の出資による協力型経営が始まったのである。
当時の主要な燃料は木炭であったが、その質はまことに深刻な状態であった。彼はそれを対馬島に求めようと考えた。対馬の日本人は昔から木炭を作り、外部に売って食糧に代えていたのである。
彼は手持ちの船を送り、木炭を仕入れようとしたが、強い風波のため船は九州の福岡に行ってしまい、仕方なくそこで農機具を仕入れて帰ることになり、当初の計画は失敗に終わった。
彼は、また自動車を買い入れ自動車運送業も試みたが、それもうまく運ばなかった。失意の日々を送るうち、弟の具貞会が暇にまかせて撞球屋(ビリヤード)に出入りするうちに、金俊煥という興亜化学工業社の化粧品技師と知り合うこととなった。具貞会は金俊煥より興亜化学が道庁商工課の指定業社としてクリーム、整髪油などを作っているという話を聞いた。
この話を聞いた具仁会は、まさに天からの啓示を聞いたように感じたのであった。「地球上に女性が住むかぎり化粧品は永遠なのだ!」
具仁会は、その場で化粧品事業への参加を決意し、強力な推進力をもって指定業者としての許可を受けたのである。
1946年2月、具仁会は弟の貞会と許允九を連れて興亜化学を訪問し、取引を開始した。70万円のクリームをソウルに持って行けば、ただちに現金で100万円を得る有利な仕事であった。化粧品販売で成功した彼は、自ら直接クリームの生産を決意し、当時、興亜化学と感情対立を起こしていた金俊煥を自社の技術責任者として迎えることとし、かつ金俊煥を通して釜山の近くの影島で、原料不足に陥っていたクリーム原料を大量に保有している元日本人経営の石鹸工場の主人とも知ることになった。
こうして彼は固城の土地と具仁商会を処分して、ドラム缶40本分のひまし油をはじめとしてステアリン酸、グリセリン、香料など300万円分を買い占めることができ、彼のクリーム生産の基礎作業はととのった。
ここで、創業時の具仁会を取りまく兄弟および許氏の活動を概観して、具仁会の目指した経営の理念、その方向を探ってみよう。
具仁会のすぐ下の弟、哲会は伯父(おじ)の養子となり、また哲会の長女は許万正の三男・許準九と結婚した。許準九は、すでに述べたように1945年秋から朝鮮興業社で勤務しており、その後、準九の弟・慎九とともに樂喜化学工業ソウル営業所に勤務し、また準九の兄である次男の鶴九は製造部門を担当している。
許準九の経営参加と、許万正の資本参加を契機として、準九の兄弟も参加するようになり、許家はとくに営業・製造分野で創業期の経営に大きく寄与したのである。
また、具家の方も、具仁会の兄弟全員がそれぞれ仕事を分担しながら経営に参加し、長男の具滋暻をはじめとする子供たち、許準九をはじめとした許万正の子供たちが、良く協力して、樂喜化学を発展させ、今日の「LG」の基礎を築いて行った。これは具仁会が常日頃説いている人和団結主義によるものであり、彼は家族ばかりでなく、取引関係者をふくめて、人の和を大切にしたのである。
そして、これに加えて技術革新と財務管理と組織づくりを重視するLGの創造性を発揮していくのである。
6)壮年期の企業活動
(1)壮年前半期、化学工業の発展
①「樂喜化学工業社」の設立
彼は41歳の壮年期に新しい可能性に向って挑戦を始めた。1947年1月、樂喜化学工業を設立し、同時に「ラッキー」の商標をもつクリームの生産を始めた。「ラッキー」は具貞会の提案が採決されたものである。
クリームは、まさに飛ぶように売れた。質も良く、材料が貴重であった時期に、貯えてあった材料を充分に使うので、他の会社の製品が1ダース5円であった時、ラッキークリームは1000円であっても、まさに飛ぶように売れたのである。
会社の組織としては、具仁会社長が会社を代表し、総括的に経営を行ない、具貞会は主に対外事業に任じ、販売集金業務は許準九、生産は金俊煥が担当して、組織の根幹としたのである。これらの人は、みな身をおしむことなく一人三役四役の役割を受けもち、事業発展に全力を傾けた。
好景気は創立以来1年間継続したし、グリセリン購入の困難はあったが、3年間に3億ウォンの利潤を上げることができた。
ところが、1950年6・25の朝鮮戦争勃発は、日帝のくびきから逃れ再建の道を歩み始めた経済に致命的な打撃を与えることになった。
ソウルの化粧品工場は戦火のためすべて破壊され、卸し店と小売店の在庫品もすべて灰となってしまった。ただし釜山にあった工場は戦火をまぬがれ、樂喜化学は生産を継続することができた。さらに、その間、苦心して外来製品にひけを取らない半透明クリームも開発されて、跳躍のための絶好の機会となったのである。
それに、戦争のため散り散りになった家族が好運にもみな釜山に集結でき、大新洞工場は連日楽しい作業が続けられた。
このように生産された樂喜クリームは、釜山国際市場を独占し、近隣都市への販路を拡大して行った。かつて例を見ない戦乱の中での好景気であった。さらに戦争を前後して、企業の高度成長を達成できた裏には、化粧品製造の重要な原料である香料の革新的改善が達成できていたからである。
具仁会会長は1952年4月、釜山で開催された第5回大韓化粧品工業協会総会で第6代理事長に選任され、ついにこの業界の第一人者となったのである。

②プラスチック工業の開拓と歯みがき薬の開発
具仁会は化粧品生産で大きな成功を収めたが、さらに壊れないクリーム容器の蓋の開発という開拓者としての努力を続けていた。このためにプラスチックの蓋が有望であるという情報を得て、早稲田大学に留学中の同郷の友人に頼んでプラスチック関係の『合成樹脂叢書』6巻を求めて熟読した結果、プラスチック産業が有望なことを知ることになった。ただちにプラスチック工場を設立する準備を進め、米国からはインジェクション機械(射出器)を注文し、1952年9月からプラスチック製の櫛を作り始めた。
これは予想どおりに良く売れて、その年11月には工場を拡大して射出器も5台にして、歯ブラシ、洗面器、食器などを生産し、大好評の売れ行きとなった。
1952年に東洋電気化学工業社を設立し、10月に最初の合成樹脂製品である「オリエンタル」商標の櫛と石鹸箱を製作した。
このようにして樂喜化学は、次々と安価で便利な多様な日常用品を通じて、これまでの生活文化を画期的に変化させながら韓国プラスチック工業を牽引して行ったのである。
1954年、ビニール・シート、およびフィルム生産。
1955年、樂喜歯みがき発売。
この歯みがき発売の成功により樂喜金星グループの基盤はいちだんと堅固になった。
1956年、塩化ビニール・パイプ。
1957年、ビニール板、ポリエチレン・フィルム。
これらの製品は人々の生活に便利な革新的製品として歓迎された。こうして樂喜化学は合成樹脂と歯みがき製造を中心として二元化し、国民生活の近代化に寄与したのである。とくに歯みがきは、外来技術を受け入れて製造したものではなく、「なせば成る」との意志の力で生産した純粋の国産品であることを誇りにしたのである。
③半島商社設立と貿易業に進出
具仁会は、1956年4月30日を期して、樂喜産業株式会社の商号を「半島商社株式会社」と変更した。この時、ソウル事務所の活動拡大により半島商社はサムソン物産と肩を並べ、半島ホテル504号室を使うことになった。
半島商社に、発展する前途を見越しながら、今日のLGの輸出入業務を担当する大企業としてテンポの速い成長の道を歩むことになる。以後、半島商社は韓国の貿易業の成長と軌を一にして、この分野の発展を主導するのである。
(2)壮年後半期、電子産業の開拓
-電子産業の始まり、金星社創業
金星社の設立は1958年。この会社は設立のはじめから国産ラジオの生産を目指し、1959年より生産を始めた。しかし消費者の外国製品好みのため扇風機とともに売れ行きは芳しくなかった。
この製造と発売をめぐっては、社会で討議を重ね、外国での売れ行きも参考にし、外国技術者も招聘するなどして、具仁会の挑戦意欲による決断の結果であったのだが。
しかし、この苦境を救ったのは、1961年、朴正熙政権によって推進された農漁村にラジオを送る運動であった。これによりラジオの販売実績が急速に増加し、1961年にラジオは約53万台であったのが、1974年には556万台と、10余年間に10倍の増加を見ることになった。
また、1961年12月、KBSテレビが開局してTV受信機の製作にも拍車がかかった。
1966年8月、金星社は国内最初の白黒TVを組み立て、生産を始め、成長を重ねた。1961年、韓国のTV台数は2万台に過ぎなかったが、1974年には160万台を越えることになった。このように具仁会は時代の波に乗って韓国初期の電子産業の成長に寄与したのである。
7)創業時代のまとめ
1960年代は韓国経済の自立と近代化のための基盤を構築する年代となった。
金星社ではラジオ普及の増進のため経営収支と技術の蓄積、確保の面で大きな進展を見ることになった。1964年、綜合電子電機工場を竣工させ、跳躍の時代を迎えた。
1960年、扇風機。1964年、冷蔵庫。1966年、白黒テレビ。1968年、エア・コン。1969年、洗濯機、エレベーターなど。金星社は国内最初の国産化に成功して国民生活の革新に大きく寄与したのである。
1969年には、18品目の電子、電気製品をはじめ通信機器、電線など生産の領域を拡大し、100億ウォン台の売り上げ規模で、創業10年にして239倍の飛躍的成長をとげた。
同時に、1962年、韓国ケーブル工業設立、1960年代末には金星電線、金星通信を設立して韓国電気、電子産業の成長を主導した。
1969年には、グループ本社をソウルに移転して、本格的に全国時代の開幕となった。
当時、LGグループは樂喜化学、金星社、半島商社、湖南精油、金星販売、韓国コンチネンタルカーボン、湖南電力、金星通信、国際新報、慶南日報など、多角的な事業領域を構築して、1970年代の飛躍を構想していた。
さらに具仁会は、企業の利潤の社会還元と寄与をはかり、文化財団を設立して奨学育成事業、文化事業、社会福祉事業を目的とした蓮庵文化財団を作り上げていた。
しかし、これらの事業を主導していた蓮庵・具仁会会長は、1960年を締めくくる1969年12月31日、円熟した人生の頂点に立ちながら、あまりにも惜しまれる年令で永眠したのである。
その後の運営は、長子相続の伝統にしたがって長男である具滋暻にまかされることになった。
2.具仁会会長の経営理念
具仁会の生涯と、その経営活動の紹介を終えるに当って、具仁会会長の経営活動を通じて、一貫して守られてきた精神的、そして実践的な行動の指針というものが次第に明らかになってきた。
それについて筆者が、具仁会の伝記についても多く依拠した文献にある金聖寿教授の「蓮庵 具仁会・上南 具滋暻の生涯と経営理念」の中に、具仁会の経営理念として、次の十カ条にまとめて包括的に述べられている。韓国経営史学会の権威者の指摘として注目すべき指摘であるので、次に紹介しておきたい。
①人和団結主義
具仁会のいう人和とは和気ということである。和気とは互いに信じ、たがいに理解し、たがいに大切に付き合う時にかもし出される雰囲気であるという。この人和の中に偉大な事業が達成され、幸福な職場が実現される。したがって最高の経営理念とは人和が最高だといわれるのである。
この人和の経営理念がいかに成功裡に実践されてきたかは、LGの成長過程の中に具現されており、人和団結の経営理念こそ家族主義的韓国的経営を発展させてきた原動力であるというのだ。
②儒教的家族主義
樂喜の時代から、彼は家族主義を否定せず、親戚や知人、同郷の縁故で就職の依頼は、増えるばかりであったが、彼はそれらの願いに耳を傾ける誠意をつくしたという。
しかし一家親戚といえども特例をもうけることなく、一番下の職場から徹底して学び、経験を積んで能力のある人材のみを重要な任務につかせる原則を貫いたという。
とくに長男の滋暻に対しては厳しくしつけ、儒教的家族主義の共同体思想を経営理念に明示し実践したといわれる。
③勤倹節約主義
具仁会の「けちん坊哲学」は有名だ。彼は金の魔性を良く知り、勤勉で倹素、節約し貯蓄に努めた。しかも必要なところには迷うことなく大金を使うという独特の用銭哲学を持っていた。これについてのエピソードは多い。
④挑戦する開拓主義
彼の一生は「創業と開拓の時代」といえる。その経営理念は挑戦と開拓主義による経営の実現として表されよう。それはLG50年史として歴史に残されている。
⑤信念主義
具仁会は、つねに「信念のある時、人間は恐るべき力を発揮する」と言い、それを自らの実践で示し、それを企業の経営活動に参加する人々に周知させてきた。
儒教の伝統的思想を基本として近代的資本主義の道を歩んできた彼は、新しい事業に挑戦する時、必ず成就せねばやまぬという信念を貫き、それを経営理念に昇華させてきたのである。
⑥人材尊重主義
彼の経営理念の中で重要な場を占めているのが人間尊重経営主義である。彼は1950年代の後半から人材確保の方針から大学卒業生を対象として公開採用制度を実施したのが始まりである。
彼が事業を始めた時、血縁と地縁を中心として人材を採用したのであった。兄弟、親戚を中心とした経営体制が支配的で、非公開的な特採が典型化してきた。
しかし、一方で人材の重要視に徹底していた。人材を育成してこそ企業が大きくなれるという信念があったために、LGの歴史に名前が残る幹部たちを常務として次々と入社させたのである。この方針が彼の企業に政策化され、今日の繁栄をもたらしたのである。企業が熾烈な競争に勝ち残るためには、何よりも人材をよく使いこなし、また選び出した人材をよく磨き鍛えて、持てる能力を充分に発揮できるよう条件をととのえることが必要だと考え、人間尊重の創業理念として確信されていった。
⑦技術革新主義
具仁会の技術革新の経営理念は研究開発の土台の上になしとげられて行った。その研究開発による新商品、国民生活に利する新商品の開発は、韓国化学産業、電子産業の原動力となったことはよく知られている。
とくに電子産業の開拓は1958年10月、韓国最初の電子工業会社である金星社が設立されて以来のことである。
国民生活に革新をもたらした金星の電子技術は冷蔵庫の開発、TV受像機、エアコンの開発、洗濯機・厨房器具の開発、エレベーターの開発となり、通信事業の開発は電話機生産、交換機事業の開拓などとして具現された。
そして油脂工業への進出は合成洗剤産業、多様なプラスチック加工製品の開発、ビニール製品の開発と各種技術の導入と国際技術交流の開始によって技術革新が加速化されたのであった。これらは具仁会の創業初期以来の不断の研究開発の努力の結果であることが証明されている。
⑧国際化と正道経営主義
今日、LGの社訓、企業倫理綱領の基本として継承されている経営哲学が、まさに国際化、世界化主義と正道経営合理化主義である。
1965年、半島商社は韓国を先導する主導業体として旺盛な企業活動を示し始めた。
はじめにガーナのナイロビにケニア出張所を開き、日本の東京、米国のニューヨーク支社、1968年にはインドのニューデリィ支社、西独のフランクフルト支社、ハンブルク支社などを新設して国際化を積極化したのである。
また、正道思想とは、大自然の摂理にしたがい正しい道を歩む法則をいうのであるが、自己の任務に対して最善をつくしながら合理性にしたがう経営思想を意味する。
このような正道思想は、第二世の具滋暻によって本格化されるのであるが、その根本は具仁会の壮年期後半に出てくる新しい経営合理化の方法であることを認めねばならない。
⑨事業報国主義
報国とは、国家の恩義に報いることであるが、植民地時代、主権を失い日帝の圧政を体験した彼は、解放独立を迎え、企業の自由を保障されて、事業を通じて国に報いることを多く考え、次第に信念化されてきたのである。
経営の過程で困難もあったが、国家権力による密輸品に対する統制令によって外国製のラジオや各種の電気製品が姿をけし、自社製品が販路を得て勢いを取り戻すこともあった。
創立23年を迎え樂喜化学は株式を大衆化させ、国民企業として再生することとなった。これを契機に、樂喜の株は一般人に紹介され、株価は継続して上昇して行き、他企業も株を公開する起爆剤となった。
何よりも、LGで開発した創造的な製品の国産化によって外国商品を圧倒し、国内消費市場の販路を変化させる決定的な契機となったのである。

⑩国民生活便宜主義
具仁会の製造業への意志は、つまるところ国民生活便宜主義に集約される。彼はつねに「人のできないことを選択せよ。国民生活に必要なものから始めよ」であった。彼が事業を始めたのは韓国がいまだ低開発国であり、一人当たり国民所得はいまだ約30ドルに過ぎない時代であった。
1947年、樂喜クリームを生産し、1950年代にラッキー歯みがき、1959年はじめてのラジオ生産、1961年、国内最初の白黒TV、1969年、国内最初の電気洗濯機と厨房具生産など。彼の企業は国民生活便宜主義を貫いてきたといえよう。
具仁会は国民生活の向上と経済の復興こそ国民の活路であると考え、生活必需品製造の樂喜化学工業社を設立して、その第一線で国民生活向上と、自己の企業の発展のため働いてきた。それこそ樂喜金星の始源であり、韓国の産業発展の貴重な基礎となったのである。
参考文献
『LG50年史』
『蓮庵 具仁会・上南 具滋暻 研究』 李建憙他共著、修書院
『韓国財閥史の研究』 鄭章渕、日本経済新聞社
『現代韓国を学ぶ』 小倉紀蔵編、有斐閣出版
「草創期の韓国財閥」 ―LGの成り立ちを事例として―
山根真一『経済論叢』(京都大学)第171巻、第4号
筆者略歴
1953年 名古屋大学文学部哲学科 卒業
1960年 同大学院修了
1961~2002年 朝鮮大学校で哲学、朝鮮思想史、朝鮮文化史を担当
現在 国際高麗学会理事、韓国実学学会名誉会員
著書:
『朝鮮文化小史』太平出版
『人物・近代朝鮮思想史』雄山閣
『朝鮮近代の開拓者』朝鮮青年社
訳書:
『実学派の哲学思想と社会政治的見解』 鄭聖哲
→『朝鮮実学思想の系譜』雄山閣(共訳)
その他 多数
「科学と未来」第13号に掲載