連載 ■ 韓国の財閥 第6回

 連載 ■ 韓国の財閥 第6回 

ラッキー金星グループの具仁会、具滋暻

金 哲央

 朝鮮における近代的企業の歴史は、そう長いものではない。20世紀の初期から始まる日本の植民地となった時期、日本の圧力をしのぎながら、なんとか近代的企業として生長しようとする企業もいくつか存在したが、植民地体制のもとでは、充分な条件があった訳ではない。
 ところが、1945年8月の日本帝国の敗亡と、朝鮮の解放と南北への分断という条件のもとで、南部朝鮮を占領した米軍は、対ソ戦略を重視するあまり、健全な民主主義を担って行くべき中道的な政治勢力を育むかわりに、反共主義を前面に掲げた李承晩と、地主や資本家など親日派を多く含む保守勢力を対韓政策の拠り所としたため、農地改革などの民主改革も十分な成果を上げることができず、「独裁と民主主義の蹂躙」という現代韓国の特徴をなす政治風土を根付かせることになった。
 このような政治的風土の中で、どのような個人または企業家が、どのような契機または努力によって、資本家または財閥として自己を形成して行くのであろうか。
 ここには世界でもまれな特殊な「物語り」が存在するので、それを簡単に言及しておくことにしよう。
 それは「解放」直後の南朝鮮に存在した財産の80%以上を占めていたいわれる旧日本人所有財産の払い下げ問題である。これらの財産は「敵性財産(敵産)」や「帰属財産」と呼ばれ、農地、工場、鉱山、銀行、住宅などの不動産類から有価証券、金、銀、宝石、美術品などの動産類にいたるまでのさまざまな財産があったが、主要なものは「帰属企業体」と「帰属農地」であった。
 将来にわたり独立国家の共同財産となるべき国富をめぐって、米軍政庁は、まず南朝鮮に存在する敗戦国の財産を「凍結」し、つづいて産別労組下の労働者や建国準備委員会などによる国富の自主管理運動に対抗して、米軍政庁は「敗産管理課(後の管財処)」を設置し、責任者として米国人財産管理官を任命した。そして、その下に植民地時代に企業経営に関わっていた人物たちを管理人に選定したのである。ついで米軍政庁は多くの政党、社会団体の反対を押し切り、これらの帰属財産を、管理人や賃借人の縁故者たちに有利な条件で次々と払い下げて行った。残りの帰属財産をは李承晩政権により「自由私企業主義」という方針のもと国有企業の「民営化」が推進され、「民間」という「特権層」に払い下げ、この事業は完了するのである。表に示す「主要財閥の帰属企業所有状況」に見られるように、今日の主要な財閥の大部分が、ただ同然でこれらの払い下げの恩恵を受けていることが理解されるであろう。
 ただ、払い下げの恩恵を受けることが出来た人の出身背景を見ると、日帝末期の企業関係者と現主要財閥が大部分を占めるが、その後の朝鮮戦争の影響や経営破綻者などもあって、払い下げを受けた三千近い企業の中、今日まで残存しているのは、その約半数にすぎないことも歴史的事実である。
 以上のような歴史的過程をふまえて、韓国の財閥資本が、(国家)独占的、隷属的、官僚的な属性を色濃く帯びながらではあるが、今日まで一貫して産業資本主義的な経済発展の担い手となってきたことと、現在の主要財閥の多くが50年代に、その後の継続的発展のスタ-トを切ったことも歴史のしめすところである。
 そして、これらの生成期の財閥資本が産業資本化して行った過程を分析して、三つのタイプに類型化して考察することが行なわれている。
 その第一のタイプは、「権力密着型」ないしは「政商資本型」と呼ばれる財閥である。「政商的」という属性は、韓国財閥の成長過程において多少とも共通して見られるものであるが、ここでは権力との密着度が度を過ぎて政権交替を機に没落して行った財閥資本をさすことにする。
 第二のタイプは非産業資本から産業資本へ転化して行った「産業資本Ⅰ型」。このタイプの財閥は、商人資本として財閥を形成しながらも、その後産業資本的な発展パターンをたどったもので、韓国財閥の中で最も多いタイプと思われる。(例:三星)
 第三のタイプは、創業時より製造業に従事して産業資本的な性格をもっていたか、または商人資本としての出自をもちながらも、解放後いち早く産業資本化して行った「産業資本Ⅱ型」である。これは韓国財閥の中では少数派であるが、後には多角化しながら産業資本的な成長を遂げた財閥である。
 以上の三つのタイプの中、第一のタイプはこれまで述べて来なかったが、第二、第三のタイプについては、これまで述べて来たことがあり、また今後もそれらについて説明して行くつもりである。

  具仁会の初期の活動

 今日、韓国三大財閥の一つといわれるラッキー金星グループの創建者である具仁会の経歴を見ることにしょう。
 具仁会は李朝末期といえる1907年に慶尚南道晋陽で中農の父、再書の長男として生まれた。弘文館侍読官であった祖父然鎬の下で漢学を学び、近代的な学問が必要だと普通学校(小学校)2年に編入したが3学年の時、中退して中央高等普通学校に入学し、2学年を修了した。1931年、晋州において弟の哲会と共に具仁会商店を作り、布木商(織物商人)として働きはじめた。
 ところが1945年8月、解放を迎えた彼は新しい時代の気流に乗って、さらに事業を発展させようと、1947年、楽喜化学工業社を釜山に設立した。まず目をつけたのは、当時粗悪なものしかなかった婦人用のクリームであった。日本の高級品を参考に、香料も上品なものを加工し、容器を高級感を出すように研究を重ねた。次いでその容器製作のためにアメリカからプラスチック加工機械を輸入し、高級感ある容器で発売して大きな成功を収めた。さらに歯ブラシ、そしてラッキーの名前を一躍有名にした「ラッキー歯薬(歯みがき)」は市場を独占することになった。
 ラッキー(樂喜)の名を付けた「樂喜化学工業社」(1954年創業)の基礎は、この歯みがきの大ヒットにより不動のものとなった。
 これらの商品、クリーム、その容器、歯薬(チヤク=歯みがき)の開発に見られるように、具仁会は、一つの商品の開発にあたって、研究を重ね、深く探求して一流品を創造するという彼特有の行動様式―「深耕を目指す知性派集団」という特徴が、すでに彼の活動の出発から見られるのである。
 それまで人びとは指に塩をつけて歯をみがくという行動様式から、清冷感あふれる歯薬(歯みがき)を歯ぶらしにつけ歯をみがくという、かなり文化的な高揚感が全国に広がって行ったのである。それは、とくに軍納という特権を見つけ販売量は急増した。
 こうしてラッキー・マークの歯ブラシ、歯みがき、化粧石鹸、石鹸箱、櫛、洗面器、食器などの生活必需品は国内で独占的な地位を占め、国内最初のプラスチック産業は、さらに60年代にはフラフープの大流行となってヒット商品となった。

 さらにラッキーが「金星社」を創立して、国内最初のラジオ製作を始めたのは59年のことであり、ライバルの三星電子の創立よりも十年も早かった。
 ただ、西独の技術者を雇い入れて国産ラジオ第一号である「A―501」の製造に成功したものの、その販売は不振を極め、倒産の危機さえささやかれた。
 しかし、転機はやって来た。それは朴正煕時代に入ってから始められた農漁村へのラジオ寄贈運動であった。これは朴政権が自らの政策を全国民に広報するため農漁村にラジオを送るというもので、これはもともと具仁会自身の提案によるものであった。
 運動の初めに当って、金星社はまず自社の作ったトランジスターラジオ「T-604」5000台を政府広報部に寄贈した。62年7月から国民から寄付を募って運動が本格化されるや、金星社のラジオは62年一年間で13万7000台も売れ、売上額4億3100万ウオン、純利益7300万ウオンを稼ぎ出し、運動の終わる63年までに20万台以上を売り上げたのである。金星社は、設立当初の危機を政府による特恵措置で乗り切り、その後「GOLD STAR」(95年にLGに変更)のブランド名で有名な世界的電気メーカーとして成長していくのである。
 韓国財閥は、企業の第三のタイプにしても、政府との特殊関係が成長の秘訣であったことを物語っている。
 金星社の設立と成功によって、現在のラッキー金星グループの三本柱である化学、商事(ラッキー商事、53年設立)、そして電気のすべてが揃うこととなった。
 こうして各種プラスチック製品、シャンプー、ポリエチレン、通信ケーブル、電力ケーブル、電話交換機、カーボンブラック、TV、冷蔵庫、洗濯機、扇風機、レジスター、エレベーター、各種の石油など、このラッキー金星グループの製品が次々と韓国の社会に独占的に送り出されて行った。
 電気部門においても政府の要請を受け、62年、金星電線が設立された。この時、金星は日立電線に資金、技術の協力を求め、その後、69年には電話機、電話交換機などを生産する金星通信が設立された。
 こうしてラッキー金星は、化学、電気、商事、保険などにまたがる大グループに成長して行った。しかし、60年代を通じて、大きく事業を展開していたラッキー金星は一つの転機を迎えることとなる。それは創業者・具仁会の死去であった。(1969年12月31日、63歳)

  新世代への事業の継承

 初代の具仁会には兄弟が多く、弟たちである哲会、貞会、泰会、平会、斗会が健在で、それぞれグループの中で責任のある役割をはたしていた。
 だれが二代目の総帥となるのか、経済界は注目していた。
 1970年度のラッキー金星グループの仕事始めの日、役員たちは続々と会議室に 集まって来た。その時、会長室に座っていた最年長のラッキー化学工業社社長の具哲会は、末席に座っていた具仁会の長男・具滋暻を呼び、中央にある会長の椅子を指さしながら「君がここに座って、就任の挨拶をしたまえ」と言ったのである。自らは、その隣の椅子に座った。実は、この決定は70年1月8日に召集された大家族会議で、創業者の弟である哲会と貞会の強い主張によって長子継承が貫かれていたのである。
 指名を受けた具滋暻は、叔父たち、創業以来の重役たちを前にして、いとも控え目に、その決意を述べた。「若年の私が亡父の遺業を受け継ぐことができるか気掛かりでございますが、皆様のご協力を得て、悲壮な決意でやり遂げるつもりです。どうぞ、よろしくお願い申し上げます。」
 ラッキー金星が選んだ継承の方法は最も伝統的で無難な方法であったし、かつ重役たちは、すでに具仁会が早くから長男の滋暻を企業の枢要の部署につけて鍛錬していたこと、かつ本人も人びとの期待に応えるだけの能力を持っていることを、すべての重役たちは認めていたのである。

 具滋暻は1925年生まれで、晋州師範を出て、釜山師範大学付属国民学校で教師をしていたのであるが、49年、父親の厳命で樂喜化学工業社(現LG化学)に呼び出され、そこに働くことになった。彼は叔父の泰会のもとで化粧品研究に従事すると共に、会社の管理職はどうあるべきかを教わることができた。その後、彼は朝鮮アルマイト工業社の経営(51年)や東洋電機化学工業社の設立(52年4月)に関わるかたわら、樂喜化学工業社理事(50年5月)、金星社理事(59年)、樂喜化学工業社専務理事(62年8月)、金星社副社長(67年1月)などを歴任しながら、父親の元で厳しく事業の指南を受けて来たのである。
 この29年間の誠実な努力と実績によって、叔父たち、とくに年長の哲会、貞会、泰会たちに信任され、「人和団結」を重視した先代の経営理念に基づいて、「秩序整然たる血統継承の教科書的な実例」と評される新体制の実現となったのであった。(1970年1月、45歳)
 これに反して、30年後の話になるのであるが、事業の天才といわれる鄭周永が築き上げた巨大財閥の「現代」は、社長団運営委員会(87年)、社外理事制度(96年)などを取り入れ、意志の統一をはかったものの、総帥の座を巡って兄弟間に激しい争奪戦が繰り広げられ(王子たちの争い)、結局、鄭周永は兄弟たちによる巨大財閥の解体過程を見つめながら2001年、永眠せねばならなかった(3月21日)。

  1970年代におけるラッキー金星(LG)の新展開

 ラッキー金星グループは60年代には韓国最初のトランジスターラジオを生産した企業となり、70年代に入って石油化学、精油、精密機器、電子産業で重化学の基盤構築を終え、80年代には半導体、エレクトロニクス、生命工学産業など、ハイテク産業をグループの重要戦略産業とするに至った。ラッキー金星グループの躍進の30年は、ただ驚くばかりある。
 企業体としては、湖南精油、(67年)、ラッキー素材(68年)、金星通信(69年)、ラッキー開発(69年)などを設立し、1960年代末には系列会社12社、従業員二万人の大企業に育っていた。
 1970年代、グループの総帥が二代目の具滋暻となり、さらに成長期に入ったラッキー金星グループは、70年代には
  金星アルプス電子(70年)
  金星電気(70年)
  喜星産業(71年)
  ラッキー証券(73年)
  金星継電(74年)
  金星精密(76年)
  金星半導体(79年)
と企業を増加させ、80年代に入っては次のような企業を立ち上げた。
  金星ハネウェル(84年)
  LGAD(84年)
  金星マグネテク(86年)
 さらに研究所としてはラッキー金星経済研究所なども設立している。
 このようにして財閥の垂直および水平な系列拡大戦略を展開し、これによって韓国三大財閥の一つとして完全に土台を築くに至ったのである。

  90年代のLGの「第二創業意志」
          ―「21世紀に向けた経営構想」

 金星社は、すでに80年代から企業の海外進出をはかっており、家電分野においては、80年代米国販売法人ゴールドスター・エレクトロニック・インターナショナル(GSET)を設立して、米国全土に代理店とサービス網を構築する一方で、同年11月に西ドイツには現地法人GSDG,翌81年7月にはパナマ法人を設立して、事業を拡大している。
 さらに同年9月には米国ハンツビルにカラーテレビ工場を起工し、翌年から生産を始め、84年には第二工場を建設して、年生産能力を100万台に拡大すると共に、年産20万台の能力を持つ電子レンジ工場も立ち上げた。
 さらに、同年7月に米国サニーベイルに技術開発現地法人ユナイテッド・マイクロテック(UMI)を設立して、コンピューターや半導体などの技術開発に努め、貿易摩擦の激化を見越しながら現地生産へ切り替えて行ったのである。
 そのほか、石油化学工業分野でも、海外進出に努め、84年3月には母企業の(株)ラッキーがサウジアラビア政府との合弁で石油化学製品を生産するNPCを設立し、もう一つの中核分野になっている化学工業(石化)でも海外展開に進展が見られたのである。
 ただし、韓国における技術発展は、これまでにも指摘されて来たことであるが、自力開発というよりは海外からの技術導入や資本財などの輸入に依存する傾向が強かったために「組立型工業化」と呼ばれて来たのである。
 ここには韓国における技術・熟練蓄積の脆弱性に対する問題意識が込められており、技術集約度の高い産業の実現に当って、韓国企業が自主開発できない核心的な生産技術や工作機械・重要部分については、日本などの先進国に依存せざるをえなかった事例が多い。それは何よりも毎年の莫大な対日貿易収支の累積赤字がこのことを雄弁に物語っている。
 先端技術における対外従属性の克服は、依然として韓国資本主義の課題として提起されているのだ。韓国企業による海外投資の増大による企業のいっそうの外延的発展のためにも、この課題は忘れられてはならない。
 さて、「ラッキー金星」の問題に立ち返ると、ラッキー金星は90年2月に経営理念宣布会を開き、「第二創業意志」として「21世紀に向けた経営構想」を公表した。従来の「人和団結、開拓精神、研究開発」を継承発展させて「顧客のための価値創造」・「人間尊重」が経営憲法に盛り込まれたのである。
 具滋暻会長をチーム長として「企業調整室」内に「Vプロジェクト」が設置され、社長団は次の三つの改革の基本方針を打ち出した。

 ①組織構造および運営体制改革

 ②事業文化単位(CU:Culture Unit)による経営

 ③自律経営および人材育成

 以上の取り組みで注目されるのは事業文化単位(CU)による経営をテコとして自律経営システムの確立をめざしたことである。この事業文化単位(CU)とは、他の事業と明らかに区別される事業の経営特性により、具体的には、化学、電気、電子、金属、機械、金融、綜合流通、建設の各分野で、いくつかの事業文化単位をつくり、それぞれの単位を主管する中核企業を配置し、グループ会長の権限を各企業の社長に大幅に譲渡して、責任ある自立経営の確立を目指したことである。
 化学と電子・電気分野を基軸に巨大財閥となった「ラッキー金星」にとって、新しい事業システムの導入は、肥大化した各事業の自律化とともに、金融や流通などの新しい分野の事業展開のための有効な手段となるであろう。


 このような経営体制の再構築に基づいて、95年1月にグループ名を「ラッキー金星」から「LG」に改称すると共に、ついに同年11月には、創始者がそうしたように、二代目具滋暻が後継者として鍛えて来た長男・具本茂を第三代の総帥と指名し、新しい体制の幕開けを無事に迎えることになったのである。
 第三代総帥となった具本茂は名門ソウル高校を卒業(1964年)して、アメリカのアシュランド大学とグリーブランド大学院を卒業したのであるが、創始者が息子の自分を鍛えはじめたように、父の具滋暻は息子の卒業を待ちかねたように、ただちにソウルへ呼び寄せ、審査課長に任命して厳しく事業の基礎から鍛えはじめたのであった。
 実は創始者の具仁会の末息子の具滋克も具本茂と同年にソウル高校を卒業し、後にグループの経営に参加することになるのであるが、創始者の息子といえども、事業の継承に関しては、長子優先の伝統が厳しく守られているのである。
 いずれにせよ、1995年11月、第三代総帥・具本茂の指揮による巨大財閥「LG」の「第二創業意志」が明らかにされ、三大企業の一つとしての活動は展開されている。
 そして、この半世紀に及ぶ各企業の目覚ましい活動の結果、多くの企業は巨大企業として成長し、いくつかの巨大財閥では事業体制の再構築を契機として、複数の傘下企業が分離独立するケースが発生することになった。その中には、三星グループのような不幸な分裂もあったが、LGグループの中では、創業者具仁会の弟たちで創業以来の幹部であった泰会、平会、斗会の三兄弟がLG電線グループを立ち上げ、円満な親族分離が生じた(2003年)。これにつづき具家の外戚である許昌秀のGSグループもLGから正式に分離独立することになった。
 また、LGグループ内部に厳しい労資の対立が生じたこともあり、さらに1997年7月にタイで始まったアジア通貨危機は瞬く間にASEAN諸国に伝播し、韓国に飛び火することになった。韓国は11月、タイ、インドネシアに続いてIMFへ救済を仰ぎ、12月にはIMF史上最大規模となる緊急支援を仰ぐことになった。いわゆる「IMF体制」・「IMF統治」の始まりである。
 これを契機に多くの企業が「淘汰」を受け、歴史の舞台から姿を消したのであるが、幸いにLGは生き残り、その活動をつづけている。
 これらの起伏に富む物語は、しかし、テーマを別にし、他の機会を待つことにしよう。

□参考文献
LG『LG50年史』ソウル、1997
李建憙外『蓮庵 具仁会・上南 具滋暻 研究』修書院、ソウル、2000
鄭章淵『韓国財閥史の研究―分断体制資本主義と韓国財閥―』日本経済評論社、2007
朴東洵『韓国財閥のリーダーたち』東洋経済新報社、1992
服部民夫、大道康則『韓国の企業―人と経営』日本経済新聞社、1985p

「科学と未来」第12号に掲載

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