連載 ■ 韓国の財閥 第5回
李健熙 ─ サムスンの経営を再建した二代目
金 哲央

1987年サムスングループの会長に就任した李健煕会長
李健熙はサムスン財団を一代にして築いた李秉喆の三男として、この世に生を受けたのであるが、二代目としてサムスン財団を受け継ぐことになるには、当然その人物のもつ強烈な個性と父親の経営スタイルを引継ぎながらも、彼個人の独特な経営スタイルが多くの人に認められたことの結果によるものであろう。
小論では、彼の生長過程から浮び出てくるその個性や、生活方式の特徴、独特の経営スタイルについて考察して見ることにしよう。
1.家族
家族は上から孟煕(メンヒ)、昌煕(チャンヒ)、そして三男の健煕(コンヒ)、そして四人の姉たち─仁煕(インヒ)、淑煕(スッキ)、順煕(スンヒ)、徳煕(トッキ)と妹の明煕(ミョンヒ)がいる。すなわち三男、五女ということになる。
彼は1942年1月9日、父親の実家のある宜寧に生れた。その時、父の李秉喆は大邱のソムン市場の近くで三星(サムスン)商会を経営していた。当時は青果や干物を扱う貿易会社として、経営も上向きになりつつあった。
その頃、家族はみな大邱に住んでおり、すでに六人もの兄姉がいて、母親の朴杜乙(トウル)は幼い健煕だけに構っていられず、健煕が乳離れすると宜寧の実家に預けねばならなかった。
したがって健煕は、子供の頃から父方の祖母をお母さんと呼びながら、乳母の手で育てられたのである。ちょうど乳母の家にも健煕くらいの娘がいて、健煕たちは兄妹のように育てられた。健煕は四才になると大邱の両親の家に帰された。
初めて実母に会った時、健煕は混乱した様である。それまで祖母を母と思っていたからだ。彼は母に会うと「おばさんは誰?」と尋ねたと伝えられている。また兄と姉たちがいたことを、その時初めて知ったのである。
健煕は大邱で幼稚園に通った。
当時の李家は、曾祖母の代から貯蓄に努めたという。曾祖母は少しでもと節約に努め、一枚でも多くの布地を織るために機織りに専念した。その結果、曾祖母は400石の土地を手に入れ、さらに祖父は100石を増やしたのである。
この中で、兄の李ピョンガクが300石を、そして弟の李秉喆が200石を受け継いだのである。
それでも大邱の家はとても狭く、4畳の部屋が三つと六畳間が一つだけであった。この家に父親夫妻と三男五女、使用人たちが暮していたのである。
李健熙が幼稚園の頃から李秉喆は会社の経営が忙しく、兄たちはすでに日本に留学していたため、家族全員が揃うことは珍しかった。健熙が中学三年の時、初めて家族全員が集まったので記念写真を撮ったという。
父親の事業拡大のため、1947年5月にソウルに上京。鐘路区恵化洞163-5番地に六十坪の家を購入し、翌年には鐘路二街に貿易会社の三星物産公司を設立した。健熙は鐘路にある恵化小学校に通うことになった。
ところが恵化小学校二年生の時、朝鮮戦争が勃発した。避難しそびれた李秉喆一家は、新しい労働党政権の下で三ヶ月間、厳しい生活を送ることになった。父が持っていて自慢の種であった高級車も没収された。1950年9月15日、マッカーサー将軍による仁川上陸作戦が成功し、ソウルが米軍に占領されると、ソウルでの不安な生活に嫌気がさしていた一家は、南方の馬山に引っ越すことにした。静かな馬山ではあったが、商取引には向かない町であった。ふたたび大邱に引っ越したが、父は事業の発展をねらってさらに釡山への転出を図ったのである。東光洞に店舗を探し、古鉄回収業と砂糖や肥料の輸入業を始めたのである。健煕はこうして、小学校だけで5回も転校を経験したという。
「健煕が天井からぶら下げる飛行機や、レールを走る模型列車など、当時珍しかったおもちゃを持って来て、一緒に遊んだ記憶はあるが、口数も少なく、いたずらもしない児であったから、他のことはあまり覚えていない」─釡山師範付属小で、四∙五年生を共に過ごした権根述『ハンギョレ新聞』前社長の話である。
父秉喆が釜山で商機を見つけ、1950年代に事業を発展させていたから、高いおもちゃも買ってもらえたはずであるが、彼にとっておもちゃは遊ぶだけのものではなく、分解して、その仕組みを研究するためのものになっていた。健煕だけでなく、兄たちもそうであった。彼ら三兄弟は珍しいおもちゃがあると、遊んでから分解し、また組み立てることを楽しんだ。
この趣味は大きくなってからも続き、健煕はカメラやVTRまで分解し、さらに自動車まで分解、組み立てをするようになった。
子供の頃から健煕は無口で、一人でおもちゃは分解して遊ぶことが好きな内気なタイプであった。これは父譲りの性格であろう。父も一人で黙々と考え、実行するタイプであった。健煕も父に似てはにかみ屋で、人前に出ることを嫌がる性格である。これは子供の頃から変わっていないようである。
幼くして留学
健煕は小学校五年生であった1953年に東京に留学することとなった。父が「先進国を見て学んでこい」と背中を押したのである。すでに二人の兄が東京に留学していたとはいえ、普通の父母では出来ない決断である。
長兄の孟煕は、東京大学農学部に在籍しており、次兄の昌煕も1952年から暁星グループの趙錫来(のち会長)と共に学習院を経て、早稲田大学に通っていた。
当面、健煕は次兄の昌煕と日本人の家政婦と暮しながら、東京の小学校に通うことになった。最初の一年間、健煕は日本語に苦労した。また、国では五つの小学校を転々としたため、勉強の基礎も出来ていなかったので、小学校の勉強を一からやり直さねばならなかった。そのうえ、当時朝鮮∙韓国に対する差別も激しかった。
友達もなく、家には帰りを待ってくれる両親もいなかった。次兄とは9才も離れており、一緒に遊んでくれる人もいなかった。
「生れた時から家族と離れて暮らすことが多く、内気な性格になった。…一人で考え事をすることが多く、…深く考えるくせがついてしまった。…もっとも敏感な時期に感じていたのは、差別や憤怒、寂しさ、両親に会いたいという思いばかりだった。」
彼のインタビューの一部である。
中学一年の時、かれは犬を飼いはじめた。それ以来、犬は彼の一生の友となった。「嘘をつかず、裏切ることのもないから」というが、さみしかった留学のころ友達代わりになってくれたからであろう。のちに彼は当時格安で買うことが出来た珍島犬を30匹も集め、繁殖させ150匹にまで増やした。そして、その中から3%だけの純血の珍島犬を選び出したのである。趣味をビジネスに変えるのは彼の得意技である。
1979年には、珍島犬愛好協会を設立し、品評会を開き、その品質向上と値段のつり上げをはかった。さらに、北の名犬である豊山犬を入手して繁殖させたり、それらの飼い犬を訓練して、必要とする各機関に寄贈している。
彼の留学で見過ごすことが出来ないのは、その間に千本を越える映画を見ていることである。誰も共に語る友人もなかったので、独りで楽しめる映画館で多くの時間を過ごしたのである。当時、日本には黒沢明、木下恵介、今井正、溝口健二などの名監督が名を連ね、名作が上映されていたし、また場末の五番館といわれる映画館では、朝九時から夜十時まで一日に8タイトルの映画が格安の入場料で上映されていた。
彼は水曜と土曜は午後だけ、日曜など休みの日は、朝九時から夜の十時まで、弁当持参で少なくとも四本以上を見たのだ。こうして三年にわたる留学の間に1200以上の映画を見る映画狂となったのである。しかもその鑑賞法も独特なものがあった。つまり、主人公の立場だけでなく、わき役や、登場人物のそれぞれの立場から見ることによって、映画の一つ一つが「小さな世界」となっていることが解り、物事を立体的にとらえる「思考の枠組み」が形成されていることに気付いたのである。
物事を多面的にとらえる能力がこうして養われ、それが後の事業経営に役立つことになった。
健煕は小学校五,六年を終え、中学に入学した。この三年間に、映画以外に興味を示したものにレスリングがある。当時、彗星のように現れ、爆発的な人気を集めたのが力道山である。彼が巨大な肉体をもつアメリカのプロレスラーの繰り返す反則に耐え切れず、ついに伝家の宝刀である「空手チョップ」で相手を倒す瞬間を、日本人は力道山イコール日本代表として喝采を呼び、在日する朝鮮∙韓国人は彼をひそかに自民族の代表として、その力闘に快哉を叫んだのである。
健煕も人知れず、力道山を自民族の代表として、力闘する彼を、当時普及しはじていたテレビを通して熱烈に応援したのであろう。中学一年を終えて帰国し、ソウル師大付属中学に編入、中学卒業後、同付属高校入学と同時にレスリング部に入部した。学業に余裕ができるのを待ちかねての入部であった。ウエルター級選手として全国大会で入賞したこともあるが、残念ながらレスリング生活は二年で終わることになった。練習で額を切り、家族がレスリングを続けることに反対したからである。
のちに彼はレスリング協会の会長やIOC委員をつとめ、韓国レスリング選手の強化に尽力した。
彼が二日も寝ずに十時間の会議を開いたり、ゴルフ場でつづけて1500球もの打ち放し練習が出来るのも、レスリングで鍛えられた体力のおかげである。その他、彼は乗馬、ゴルフ、卓球などをこなす、かなりのスポーツ∙マニアなのである。
日本へ再留学
1961年のことだ。ふたたび李秉喆は健煕に「先進国をまなべ」と言った。すでに彼は延世大学校に合格し、学費を払い、教科書も買っていた。しかし、父は日本留学と商学部をすすめながら、こう言うのであった。
「お前には企業経営は向かないと思うが、マスコミはどうだ?」
そのすすめに、健煕はただ「わかりました」と答えたという。
父が健煕にマスコミの話をしたのは、すでに彼にマスコミ関連企業をいくつか任せようと思っていたからである。彼は早稲田大学を卒業した後、アメリカのジョージ∙ワシントン大学のビジネス∙スクールでの一年半の留学を終えて帰国した時には、父はすでに東洋放送(TBC)を設立していたのである。
アメリカ留学中は、車に熱中した。何度も車を乗り回して、構造と特徴も把握し、きれいに分解、掃除した後、買った時よりも高値で転売し、次の車に移るのであった。自動車は二万個を超える部品を組み合わせた機械である。それを分解、組み立てができるようになるためには、かなりの知識と資質が必要である。アメリカで車を分解、組み立ての過程で、車の部品の30%が電機と電子製品であることが解った。そして今後の車は、電機と電子製品の依存率は50%を超えるだろうと考えたのである。
サムスングループはサムスン電子を中核企業としており、まさにその電機や電子技術を駆使して一流の車を生産してみたいという野心が健煕にはあったのである。これこそ彼が自動車産業に進出しようとした理由なのである。結局、自動車産業への進出は、IMF金融危機の中、政府の規制によって失敗に終わったけれども、彼の車についての造詣は、その後の経営活動に大きく寄与することになる。
彼の家に招かれた技術者は、日本人だけでも数百人にのぼるといわれる。こうした努力のおかげで、彼は電子製品について詳しく知る経営者となることができたのだ。
初の職場「東洋放送」へ
彼が帰国したのは1966年、26才の時である。帰国後、彼は研修社員としてサムスンの秘書室で働いた。彼の仕事は、その日の朝刊からサムスンに関する記事を探し出し、それに赤線を引いて父の李秉喆がすぐわかるようにすることだった。そして父に随行し、かつ現場で実務を学んだのである。
また、当時東洋放送の会長をつとめていた洪璡基(ジンギ)の長女、洪羅喜と結婚した。
1968年12月、彼は公式に東洋放送に理事として入社した。当時の東洋放送の会長は義父の洪璡基であったが、その下で、彼は8時に出勤し、夜の10時半まで働いた。東洋放送は開局して二年足らずの新生テレビ局であり、一日も早く軌道に乗せねばならなかった。
彼は映画狂であったから、テレビの視聴率はドラマが必要であり、この部門でトップを獲得しなければと考えた。そのためには主役はもちろんであるけれども、主役の役割を際立たせるのは、良い脇役がなければならない考え、当時名のある脇役を充分な報酬を保証して確保し、立派なドラマを作り上げて、他のテレビ局を圧倒し、時には視聴率が80%に達する番組を作り上げたのである。視聴率が高くなれば広告収入は多くなり、東洋放送の業績は順調に展開して行った。
一方、彼は出版メディアでもめざましい活路を開いた。新聞『中央日報』を基本としながら、彼が中心となって創刊した月刊誌『女性中央』と週刊誌『週刊中央』は大きな注目を集めた。
約十年間にわたり東洋放送と『中央日報』の理事を勤めた李健煕は、1970年代半ばから「半導体」という新たなビジネスをはじめた。
現代工業の生命の核心となる半導体の重要性に、いち早く着眼し、半導体産業にしようとした点を見ても、健煕の独創的な企業精神が理解されよう。1974年、彼は李秉喆に半導体産業に進出することを提案したのであるが、父は時期尚早とこれを退けた。膨大な資本を要し、サムスンがそれまで関わってきた事業とは全く異なる産業であるからである。
やむなく彼は富川(プチョン)にある韓国半導体という小さな会社を4億ウオンの私財を投げ打って買収し、これに賭けたのである。
現在、サムスン電子がサムスン財団の中心企業であり、半導体こそ韓国経済を支える主産業の一つであることを思えば、韓国産業史にも歴史があることを実感せざるをえない。
2.李秉喆の決断
1976年9月、李秉喆は胃ガンを宣告された。東京を訪れた時、慶応義塾大学病院で健康診断を受けたのである。
李秉喆は仕事の都合で韓国に帰らねばならなかったので、とりあえずソウルに戻り、親しい医者たちに意見を聞くと、結果は同じく胃ガンであった。李秉喆は東京のガン研病院で手術を受ける手続きを行ない、出発の前日、家族たちを自宅に呼び集めた。李秉喆も死を覚悟して、遺言を発表するため家族を呼び集めたのである。
「これからサムスンは健煕が引っ張っていく。」─爆弾宣言であった。
健煕は日本での父の入院手続きのため、そこに居なかった。長男の孟煕と次男の昌煕はショックを受けたようだ。とくに長男は、いずれサムスンの会長は自分がなると信じていたからだ。しかし、また一方で、自分は次期会長になれないことも何となく感じていたらしい。
李秉喆は前々から三人の息子をつぶさに観察し、彼らの力量を計っていたのだ。彼は後継者を決めるに当って、次の三点を考えたようである。
第一、サムスンの従業員は数十万を超えている。これを存続させることが、まず重要である。
第二、仁徳と管理能力を持った経営者として、会社運営を指揮する能力があること。
第三、本人の希望、資質、力量に応じて事業継承の範囲を決めること。
「長男の孟煕にグループ企業の一部の経営を任せてみた。しかし、半年足らずで、任せた会社はもちろん、グループ全体が混乱してしまった。そして自ら経営から手を引いた。
次男の昌煕は、…多くの人を統率し、複雑な大組織を管理するよりも、自分に適した会社を健全に経営したいというので、本人の意志を受け入れることにした。
三男の健煕は、早稲田大学を卒業し、アメリカの…大学へ留学して帰国してみると、サムスングループを受け継ぐ人がいないことに気づき、グループ経営の一線に徐々に参加するようになった。…わざわざ苦労の道を選ばず『中央日報』だけがんばってもらえればと思っていたが、李健煕本人がグループ経営をやりたいと言うなら、任せてもいいのではと思った。
新たな発展の基盤になることを切に願いながら、私の後継者として三男の健煕を指名する。」
長幼の序を重視する韓国で、財閥の後継者を三男にするのは破格といえよう。
しかし李秉煕にとっては、サムスンという韓国最大の財閥を率いていく能力があるかどうかの方が重要だったのである。
1979年2月27日、李健煕は『中央日報』の理事からグループの副会長に昇進し、サムスン本館の28階にある李秉喆の隣の部屋に移った。
その日、李秉喆は彼を執務室に呼び、自ら筆にした「傾聴」という書を与えた。人の話に耳を傾けることこそ、大企業を率いる人間にとって重要だと強調したのだ。
父の強調と自らの納得によって、健煕は他人の話を最後まで聴く経営者となった。
彼は役員会や報告会議の時も、まず相手の意見や報告を聴くことに時間を割いた。しかし、一度話しはじめると、綿密な事前調査にもとづき三、四時間は話しつづけることがある。彼は、しばしば自ら各界の専門家を招いて意見を聞き、さらに何度もなぜ、その事業を行うのかと自問するのだ。このようにして、彼はサムスングループを構成する主要企業である電子、紡織、合繊、製糖、保険などについて深く把握していったのである。
父の死
1987年11月19日、李秉喆はこの世を去った。78才であった。1938年、果物と乾物を扱う三星商会を始めてから1987年まで、傘下に37社を持つ大財閥に育てた経営者を失ったのだ。
彼が三万ウオンで始めた三星商会は、1987年には資本金6310億ウオン、輸出額11億2500万弗、売上高17兆4000億ウオン、経常利益2668億ウオン、従業員数16万595名を数える大財閥に成長し、そのバトンが、ついに李健煕に渡されたのである。
李秉喆と健煕は異なる人格であるが、共通する点も多い。まず、その研究熱である。李秉喆の研究方法は、効率的かつ緻密であった。研究熱では健煕も引けを取らない。彼は研究を趣味とする人間だ。
しかし、李秉喆には強いカリスマ性と現実を察知する能力があったとすれば、李健煕は未来を見抜く能力、今世紀の品質重視の時代を見通す能力があるとされている。サムスン経営の引き継ぎは、はからずも時代の流れを先取りしたものとなったと言えよう。
3.「第二創業」を宣言

冷蔵庫の底までチェックしながら、欠陥品の有無を確かめている李会長
1988年3月、李健煕はサムスンの「第二創業」を宣言した。
彼は第二創業のため新規事業を進めると同時に、事業再編を開始すると発表した。新規事業とは、宇宙航空産業と遺伝子工学分野および高分子化学分野への進出を意味し、事業再編とは、電子と半導体、通信分野を一つに合併し、経営効率を高めることであった。
この「第二創業」に伴う事業再編こそが、今日のサムスン電子が世界的な家電、情報通信メーカーとなる基盤を築いたのである。
しかし、事業再編と新体制の確立は予想以上に難しかった。何よりも、この50年間でき上がった「強固な体質」を改革することは困難であった。
当時、サムスンの人々は、優秀な経営者李秉喆が50年間にわたり堅実に経営する韓国最大の財閥であり、国内でもっとも優れた財団であると自負していた。しかし、新会長の眼から見ると、これは単なる錯覚であって、このまま何も変らなければ、サムスンは消滅してしまうのではないかと危機感に襲われていたのである。
前会長は経営を円滑に運営するために、旧日本軍の情報収集と分析および計画案の組織であった参謀本部をまねて「秘書室」という大規模な組織を作り、これに依拠して財団を運営してきた。新会長はサムスンの改革には、まず秘書室の改革が必要だと考えた。秘書室では、全般に「質よりも量」という考えが支配していたのである。当時、秘書室の責任者は李秉喆の補佐役を12年間も勤めてきた蘇秉海(ソビョンヘ)室長であった。
1990年12月、李健煕はこの蘇秉海をサムスン生命の副会長に転出させ、新しい秘書室長に第一製糖、第一合繊、サムスン生命の社長を歴任した李洙彬(リスビン)を起用するという人事を断行した。
その頃、日本人の技術顧問がサムスングループの問題点を指摘し、新会長に報告書を送ってきた。これがグループ内部で大きな反響を呼び起こした。
「サムスン電子にはサムスン病がある。社内は無計画で、浪費癖があり、何かに徹底するわけでもなく、すべては具体性に欠けている。…サムスン病を治さなければサムスンはつぶれる…」
彼は、さらに「技術者は積極性に欠け、日本企業のコピー製品を作り続けている。電子部門の技術レベルも低く、開発スピードも遅い。技術研究所も基礎研究の段階から先に進んでいない…」などと指摘していた。
驚いた李健煕会長はサムスン電子の会長を呼び、「なぜこのような実情を報告しなかったのだ!」と叱責し、報告書をグループの役員に回覧させ、対策を練るよう指示した。
このような報告書は、その後も提起された。とくに製品のデザインの問題点につき、何度も意見が提出されたが無視されつづけた。李健煕は、サムスン電子に残るこのような実態に驚き、激怒した。25年もサムスンの中枢にいながら、このような指摘をこれまで聞いたことがない自分にも腹が立つのである。
それ以来、彼は日本人の技術顧問たちに、サムスンで働きながら感じた点を書面で提出するように要請した。彼らが指摘した問題点は次のようなものであった。
① 個々人は優秀だが、技術内容が共有されていない。
② 現状に満足して挑戦を避けるので、創造力に欠けている。
③ 韓国企業は対処療法しか考えないので、問題発生から解決まで時間がかかる。
④ サムスンの重役たちは性急で、実績と結果だけで評価する。
⑤ 日本の研究所では、生き残りをかけた研究努力が続けられているのに、サムスンはそうでない。
⑥ 韓国には若者のパワーがある。この若者たちを活用することは経営者の使命である。
李健熙会長は技術顧問たちの提出した問題点を整理して課長級以上の幹部たちに回覧させた。1988年に「第二創業」を宣言したサムスンであったが、「第二創業」以前に解決すべき問題を山のように抱えていたのだ。
彼は、「1981年から今まで、グループ各社と秘書室に指示した内容をまとめ、その指示がどのように実行されたのか、会社別にまとめ報告せよ」と指示した。
この確認のために各社の企画室から3~5人ずつ動員し、「湖巌生活館」で合宿の作業が行われた。結果は驚くべきものであった。会長の指示はほとんど実行されず、また指示の伝達されないことも多かったのである。
「管理のサムスン」も、実態はこの程度の水準であることが暴露された。
これらの問題点のために、研究開発費や人件費は増加しているのに、売上の上昇が利益の増大に結びつかない悪循環が繰り返されていたのである。

ニューズウィークの表紙となった李健煕(2003.11.24)
従業員たちの意識構造も改革が必要であった。時代は国際化へと向かっているのに、従業員たちは韓国トップの地位に満足していた。流通市場開放でソニーや松下の製品が上陸してきた場合の対応策も秘書室にはなかったのである。
李秉喆は「集権型組織」の象徴のようなサムスンを作ったが、世の中は「分権型組織」に移行していた。すでに日本は1970年代に移行を終わっていた。1980年代後半、コンピュータの普及によって世界の組織が変化していた時、韓国では依然としてトップダウン式の集権型組織のままであった。
「第二創業」を深化∙発展させて、新しい血を巡らせる必要性が切実に求められていた。
4.変わらなければ死なねばならぬ
李健煕は、1987年の会長就任からの5年間を「第二創業」のための修練と準備を中心とした第一期とするならば、それに続く5年間は第二期であり、実践と成果をあげることが重要だと強調した。彼は1993年1月から8月まで、アメリカ、日本、ドイツ等158日間におよぶ海外出張をこなしながら、グループ各社社長たちとの会議も欠かすことなく、まさに超人的な一年間であった。
彼はサムスンの将来を見据え、必要な事業と不必要な事業を区分した。
これによって今日の電子、金融と化学、重工業など、三つの事業分野に再編されたサムスングループの全体像が姿を現わして来た。
また、サムスンは1993年の初めから、人材の確保と育成について大きな関心を示している。その理由として、第一に、21世紀において、技術的に自立できない企業は存続不可能である。その対策として、まず研究開発費を1兆1000億ウオンから3%以上増加することにした。当時の韓国の研究開発投資は国民総生産の3%に過ぎず、これはアメリカの30分の1、日本の20分の1であった。
この過程で、韓国は技術植民地に転落し、カラーテレビ1台生産するたびに7,8ウオンの技術料を、携帯電話の場合は160ウオンを、ワクチンの場合は780ウオンを、16メガビットDRAMの場合は10万ウオンのロイヤルティを支払わねばならなかった。
つまり製品を作れば作るほど、外国企業を潤す結果となるのである。
第二には、ハードウェアの製造よりも、ソフトウェアの開発が切実であるから、人材の確保と育成が重要となる。これを彼は、「一人の天才が10万~20万人を養うのだ」と表現する。
彼の危機感は「妻と子供以外はすべて変えよう」というスローガンとなったのである。
ロスアンゼルス会議
1993年1月31日、李健煕はロサンゼルスを訪れた。アメリカの主な取引先と支社をまわり、市場の現状を把握するためであった。そして秘書チーム長に指示してサムスン電子の社長をはじめサムスングループの電子系企業の役員23名を国から急遽呼び集め、彼らと共に家電製品売り場を訪問したのである。
売り場にはGEやフィリップス、ソニーなど世界一流企業の商品が並べられ、その性能とデザインを競っていた。しかし、サムスンの製品は、ほこりをかぶったまま、売り場の片隅に放置されていたのである。
彼らは、その光景を見てショックを受けた。韓国で一流を誇っていたサムスンが世界市場では冷遇されているのだ。その場にいた全員が沈痛な表情にならざるをえなかった。
2月18日、ロサンゼルスのホテルで「電子部門輸出品現地品評会」が4日間の日程で開かれた。ライバル企業の製品と自社の製品を並べ、性能やデザインなどを比較するのである。世界のビデオカメラ、テレビ、冷蔵庫、VTRなど、78品目の家電が比較展示された。
サムスン電子の製品は、世界の一流製品に比べ、性能やデザインで劣っていることがはっきりと解った。
論議の途中、ついに李健煕が口を開いた。
「アメリカは世界最大の市場である。ここでの成果は、生き残りに直結する。アメリカでわが社の製品が冷遇されている。この状況でサムスンが21世紀に生き残れると思うのか?」
「私はすでに15年前から危機を感じてきた。今は、すでに生きるか死ぬかの瀬戸際なのだ。ナンバー2の精神を捨てろ。世界一でなければ、今後生き残ることはできない!」
「今後の2~3年が世界の一軍、一流国、一流グループに入ることができる最後のチャンスだ。私が背水の陣で改革を追っているのも、一流入りを果たすためなのだ。」
李健煕の叱責は9時間も続いた。彼はサムスンの病巣を指摘し、本格的な意識改革にとりかかった。
1993年3月、李健煕は東京にグループの社長46人を招集した。会議の前に役員たちは家電の生産現場や秋葉原を視察した。ここでもサムスン製品は日本製品の後ろに、こんな安い製品もあるよと並べられていた。
東京会議は、現場見学とショック療法を採り入れた現場学習となった。
東京会議は7月にも開かれた。この度は役員100人が参加する大規模な現場会議となった。この会議で彼が行った9時間にわたる話の要点は、「量より質を求めることにより、グローバルな競争力を獲得し、イノベーションを生み出すような企業文化を構築しょう」と要約される。
フランクフルト宣言
彼は東京での会議が終ると、フランクフルトに向かった。そこには4回に分けて役員をのべ100人招集し、会議を開いた。
このフランクフルトの会議と演説が、新経営宣言となった。彼はゆっくりと確信にみちた語調で8時間も話し続けた。
サムスンでは、この演説を全会社のテレビで放送し、すべての従業員に周知された。
さらに、この演説はサムスンの枠をこえて、韓国全土に波紋を広げ、新聞のみならずKBSがテレビ放映した。そしてこの演説は韓国の企業文化を変える転換点となった。
彼の演説は役員1800名に対して、のべ350時間に及び、800時間の質疑応答が行われたことになる。
サムスン新経営の成果は数字としても現れはじめた。1987年、彼の会長就任の時から、新経営の仕上げが行われた1996年までの売上は、およそ4倍以上に急増していった。
それ以後も、サムスンは会長の陣頭に立つ血のにじむような改革努力によって韓国のトップ企業として発展を続け、世界の注目を集めている。
われわれは以上、李健煕会長の生長過程と会長就任以後の人材を尊重する改革の精神と量より質を尊重する手法を、いくつかの研究成果に依拠しながら見てきた訳であるが、それ以後の具体的な分析は、経営の専門書にゆだねることにして、この文を終ることにしたい。


△参考文献
『サムスン経営を築いた男∙李健煕伝』
洪夏祥 宮本尚寛訳 日本経済新聞社
『サムスン高成長の軌跡─李健煕10年改革』
キム∙ソンホン、ウ∙インホ著 小川昌代訳
『ソニーVSサムスン』
張世進著 日本経済新聞社
『韓国財閥史の研究』
鄭章淵著 日本経済新聞社
筆者略歴
1953年 名古屋大学文学部哲学科卒業。1960年 同大学院修了。1961年から朝鮮大学校で哲学、朝鮮思想史、朝鮮文化史を担当。朝鮮民主主義人民共和国の教授、哲学博士。現在 朝大特任教授。この間 立教大学、津田塾大学、東京都立短大、大阪経済法科大学などの講師を歴任。著書に『朝鮮文化小史』太平出版、『人物∙近代朝鮮思想史』雄山閣出版、『朝鮮近代の開拓者』朝鮮青年社 などがある。
「科学と未来」第11号に掲載