連載 ■ 韓国の財閥 第3回

 連載 ■ 韓国の財閥 第3回 

全鎣弼 ─ 文化遺産保存に捧げた一生

金 哲央

 これまで二回にわたり韓国企業家の伝記を見てきたが、今回は少し趣(おもむき)を変えて、朝鮮でも有名な富豪でありながら企業活動に力を入れることでなく、日帝の文化遺産の略奪に抵抗して、民族文化の継承と発展のため文化遺産の保存に努力した全鎣弼(1906-1962)の一生について見ることにしよう。

 

 全鎣弼の生い立ち

 全鎣弼(チョン・ヒョンピル)の本貫は旌善(겅선)、号は澗松(간송)、ソウルの鐘路で生まれた。曾祖父の啓勲(1812-1890)は武官出身で正三品まで出世した人。この啓勲は、当時の両班が商業をさげすみ蔑視した時に、商業の重要性をいち早く悟り、鐘路中心街の「商権と銭債」を次第に拡大していき、ついにそれを一手に掌握したばかりか、その利益によってソウル周辺の土地をはじめ、黄海道延安、忠清道公州・瑞山地方の広人な農地を買い入れ、数万石の小作料を集める大地主となったのである。
 曾祖父の啓勲は鐘路に大きな邸宅をかまえ、昌燁、昌烈という二人の子がいたが、この二人が啓勲の財産を引き継いだのである。
 ところで昌烈には子供がいないため、昌燁の二人のこども、長男泳基(1865-1929)と命基(1870-1919)の中、命基が昌烈の後を継ぎ、この二人は政府の高官として共に出世し、かつ、一つの大邸宅に住み巨富を誇りながら、さらに財産を殖やしていった。
 われわれの主人公である全鎣弼は、この泳基の2男4女の末っ子で、遅く生まれたため一族の愛情を一身に受けることになるのだ。
 ところが栄えに栄えたこの一族も20世紀に入り、国運の哀退と共に悲運がつづくことになる.二人の祖父と祖母は長寿であったけれども、あいついで亡くなり、さらに名目上、鎣弼の養父となっていた命基が10月に50歳で亡くなり、ついで全鎣弼の唯一の兄、14歳ちがいであった鎣ソル(ヒョンソル)が1919年11月、わずか28歳の若さで、継嗣もなく急逝するのである。澗松・鎣弼がわずか14歳の時であった。
 こうして1919年は。澗松にとって大きな運命の画期となった。家族にとっての二つの大きな不幸-養父と兄の死。そして。それに先立つ高宗の死と、3・1独立運動。鐘路を埋めつくす人々のデモと独立万歳の喚声。これらは幼い澗松の精神に忘れることのできない探刻な印象を刻み付けたのである。
 そして、今や澗松はソウル第一といわれた生家と養家の唯一の嫡孫となり、当時の慣習法により将来は両家の全財産を相続する存在となったのであった。
 1919年の家族の不幸を契機として、幸福に満ちた富豪の貴公子は、人生の富貴栄華とは何か、これからの自身と家族の将来について考えねばならなくなり、また高宗の死により国の運命についても関心をもって、次第に無邪気な福々しい少年から、寡黙で考えの深い憂いを知る青年へと変貌して行くのである。
 また、祖父の死によって彼自身の生活環境も変わって行った。祖父は朝鮮の開化による新教育の必要を認めず、家に漢学の先生を呼び、漢文と経書(儒学の経典)を学ばせたのであった。祖父の死後、12歳になって、やっと父母と周囲の希望で於義洞公立普通学校(四年制の小学校)に入学することになった(当時は学齢期を過ぎた年長の生徒も多かった)。ここで日本語とか算数、地理などの新学問を学び、新しい世界の動きも知った。何よりも多くの男女の友人と共に遊ぶことが出来るようになり、明るい人生の展望も開けることとなった。
 また、幼時から学んだ漢字と経典の学習は決してマイナスの面ばかりを持つものではなかった。朝鮮語と日本語は、新学問の熟語を含めて、漢字に由来するものが多く、音と意味の理解は、新しい学問の理解に役立ったからである。
 1921年。同校卒業。その卒業記念写真は後列右端に、前列の大きな体の生徒に隠れるように小柄で白い喪服を着た少年澗松が写っている。
 さて、徽文(휘문)高等普通学校に進学した彼は、エリート校としての誇りを胸に多士済々の学友と交わり、新しい学問に目を開かれ、かつ当時としては珍しいスポーツであった野球部に入り、これに熱中することになる。彼はすぐに徽文高を代表する選手として活躍し、何度も優勝をもたらしたのであった。特に日本の大阪に行き、野球の名門として知られた大阪中学を撃破して、全校を喜ばしたのだ。
 また蹴球部にも属し、仲間たちと一緒に楽しく汗を流した。
 野球部や蹴球部の対外試合の後の食事会では、ソウル第一の貴公子として、当然のように友人たちの旺盛な食欲の後始末をしたのである。

 彼は、また、人に知られぬ他の一面をもつようになった。それは読書を好み、書店を次々と巡り、興味を引く本を買い出したことである。これは新刊書ばかりでなく古書店で何年か前の本や、さらには読む必要のない漢籍をも蔵書に加へて行くのである。
 澗松は後に、「蒐書漫録」という随筆で「私の蒐書に大きな力となったのは、家族の理解があったからであろう。亡き父母も、私が腕に本をかかえて帰るととても喜ぱれ、顔をしかめられることは一度もなかった」と言っている。
 彼には早くから、直接関心がなくとも、装丁が美しいとか、珍しい内容の本は、つい購入しておくという、何か美しいものを見ると手元に置くという審美眼・蒐集欲が幼いときからあったようである。
 このような彼も、五年生となると上級校の進学が問題となってくる。国内では1923年には自主的に民立大学を設立しようとする運動が起こりはじめたし、また専門学校ではあるが民族を代表する優れた学者を集めた延禧専門学校と普成専門学校が権威をもっていた。
 日帝は、これらの動きに驚き、1924年京城帝大の予科を設置することによって民立大学設立を押さえようとしたのである。
 澗松は初めから官権の支配する帝大に進学する気持ちはなく、植民地支配をする宗主国の首都東京の、それでも自由な学風が残っていると思われ、朝鮮近代文学の草分けとなった崔南善や李光洙が留学していた早稲田大学への進学を心に決めていたのである。
 1926年。徽文高普を卒業すると、その年、希望通り、早稲田大学法学部に入学することができた。彼には初めての異国での学生生活が始まるのである。彼には以前から日本の首都である東京生活を通じて、目本帝国を知っておきたいという気持ちを持っていたのである。

彼の結婚 ところで話は前後するが、実は彼は高普時代に、周囲の人たちの一日も早く後嗣を得ておきたいという切実な希望に勝てず、結婚していたのである。仲介者の言う相手の家の家柄と女性の年齢や性格をきいて判断するだけで、本人同志会うこともなかったのではないか。
 それは養父命基の3年喪が明けた1922年の春、彼が徽文高普2学年、17歳の時であった。相手は固城李氏鐘羽の娘(1905-1922)、なぜか結婚して4箇月もせぬ1922年6月に急逝してしまう。奇妙な夢のような事件であった。澗松の心に痛みだけが残った。
 しかし、それ故に周囲はなおさら再婚を迫り、ついに1923年、金海金氏昌燮の娘との結婚式が上げられた。この度は相手の健康が特に注意されたことであろう。
 この婦人は開城地方の大地十の娘で、後に普成中等学校の理事長を26年も勤める金點順(1905-1988)である。この父親は後に澗松が資金がない時、立派な農地を売って小さな陶磁器を買うのが理解できないとしながらも、澗松の急ぎの頼みに応じたこともあったようである。
 当時、18歳での結婚は珍しいことでもなく、それは話題になることもなく、彼は学校に行けば学業にはげみ、運動に熱中する一人の少年であった。
 実は、もう一つ。それは彼が1926年、早稲田大学に合格し東京に向け出発するのであるが、この年に彼は一児の父となるのである。慶事が重なり、彼の家には久しぶりに笑いにあふれたのであった。父は家に光をもたらす孫だと、この児に光雨と名を付けた。

彼の東京生活 いかに植民地になったといえソウルにいる時、彼の周囲には彼を名家の貴公子として認め尊重してくれる人にあふれていた。しかし。一人東京で暮らすことになった時、彼はただ植民地朝鮮から来た一青年に過ぎなかった。助言をし、生活の便利をはかってくれる人もなく、すべて自身で日常の様ざまなことを処理せねばならなかった。ソウルでは日常の瑣事はすべて周りの人がやってくれ、彼は学業に専念すれば良かったのであるが。
 しかし、彼はすぐに日常の生活を規律正しく軌道に乗せ、身の周りを清潔に整頓し、小さなことも粗末にせず、倹約に努めて、学生生活を正常化することができた。

 講義に熱心に参加し、空き時間があると近くの丸善支店とか古本屋に立ち寄り、本をあさった。こうしてかれは法律の勉強と共に図書の蒐集に趣味をもつようになっていった。
 ある日、こんなことがあった。丸善支店に行くと、各種の蔵書目録の台本帳があった。分類しながら書き込んで行けば、一冊千巻位は整理できそうである。
 無心に手に取って、あれこれ考えていると後ろから声を掛ける者がいた。見ると同じクラスの眼鏡を掛けた学生である。笑いながら「君、その目録を満たす自信があるかな」一朝鮮人の一学生がいくら苦労しても。そんなことができる訳はないではないかという笑いである。「何年も努力して集めれば、この目録何柵かの本位集められるでしょう。」これを聞くと、その学生は、「それは、そうだろうけれどもさ、ハハ」と嘲笑を残して行ってしまうのであった。つまり、朝鮮人にそんなことが出来る訳がないと決めているのである。
 彼は同じ学友の本心を知り。改めて殖民地朝鮮の亡国奴の一人としての憤怒と悲しみを噛みしめたのであった。

 故国での出会い

 澗松・全鎣弼は、大学が休暇となると憂いを共にし、未来を語りあえる人を求め、ソウルに帰った。彼がます尋ねたのは徽文高普の時の美術の教師であった春谷・高羲東(1886-1965)であった。わが国最初の東京美術学校への留学生で、西洋画を専攻したけれども帰国して東洋画家になった人である。
 彼は澗松の感性を早くから見抜き、それを愛して助言をおしまなかった。彼の紹介で澗松はついに運命的な人との出会いをすることになる。それは葦滄・呉世昌(1864-1953)との出会いであった。
 呉世昌もソウル鐘路の山身。朝鮮王朝末期に国の開化を唱えて活躍し、亡国の後は3・1運動を主導した民族代表の一人となった人。父の呉慶錫は中国語の訳管で金玉均と共に国の開化のため努力した人で、実学派の金正喜(1786-1856)の学統を受け維いだ人であった。
 そのため呉世昌も金正喜の学統の下に生長し、当代第一の学証学者で書芸家であり、広く深い芸術の鑑識眼をもつ学者で、民族文化財の蒐集とわが国の書画史の体系化を志し、ついに1928年、わが国で最初の書画史人名事典というべき『槿城書画徴』を出版した人である。
 澗松は、この呉世昌と出会い、この人から学ぶことによって、民族文化財の保存と継承という一生のテーマを決定することになったのである。
 こうして澗松の早稲田大学卒業(1930年)と共に、彼の民族文化財蒐集は本格化することになる。
 ところで呉世昌は澗松のために、もう一つ重要なことを準備してくれたのである.それは李淳璜(リ・ヌンフアン)という正直一本の番頭を育て、澗松の書画骨董の蒐集を担当させたことである。澗松は何度か彼に仕事をまかせて見たが、その正直さと責任感、事務能力の正確さに満足し、それ以後は文化財蒐集のすべてをまかせることになった。
 澗松は文化財の蒐集に当たって、気に入った物であれば一度も値切ることはせず、また売り手が物の価値を知らず安値で売ろうとすると、自身の正当と考える値段を付け、何倍の価を与えたのであった。
 澗松は自らが表に出て買い入れをするのを避け、李淳璜を衣に出していたが、李淳璜も澗松の方針をよく理解して、それに従ったので、骨董商は良い物が手に入ると、まず李淳璜の所に持ち込むようになり、蒐集作業は順調に進んだ。これをさらに能率的に行うため、澗松は朝鮮末葉からソウルにあった有名な老舗(しにせ)の古書店である翰南書林の白老人が死亡し、代わりの経営主を探していることを聞き、これを引き取り李淳璜と書画に明るい人を選んで経営させたのである。
 これは1932年頃であるが、これを契機に彼の蒐叉はいっそう進むことになった。
 さらに朝鮮に属住する有力な日本人コレクターから優れた山物を集めるため、ソウルの有名な骨董商である温古堂の主人、新保喜三にも斡旋を頼むことにした。新保は澗松と接触を重ねる中、澗松が民族のために文化財の蒐集をするその使命感や愛族の純枠さを理解するようになり、これまた誠意をもって澗松の仕事を助けはじめたのであった。
 ある日、新保が耳よりの情報を持って来た。ある銀行の頭取で、有名なコレクターである森悟一氏が死亡し、その遺族の希望で展示と競売を行う予定だという。1936年。11月21日が展示予見日。競売は翌日と決定された。
 競売品の写真を入手した新保が急いで澗松に会いたいと連絡があり、会って見ると今度出品される「青華白磁陽刻辰砂鉄彩闌菊草虫紋瓶」の写貞を示しながら、どんなことがあろうと、これは入手すべきだという。これがあれば少し前に苦心して入手した「青磁象嵌雲鶴文梅瓶」と双璧をなし、陶磁器蒐集家としてこれ以上の名誉はあるまいというのだ(現在、共に国宝に指定されている)。

 澗松も直ちに同意した。どんなことがあっても入手しようと。ただ、この度は鼓売は財力のある多くの日本人がねらっており、中でも京都に本店を置き、北京、ロンドン、パリ、ニューヨークなど世界各地に支店を置いている日本第一の世界的骨董商ある山中商会の山中会長自らが出席して、これを狙うという。
 ついに11月22日、澗松は目立たぬよう新保の後に座り、目指す青華瓶の出品を待った。満員の客が今か今かと待った青華瓶が出品されたのは、競売も中頃にさしかかり会場の雰囲気が高まってきた時であった。500円から始まった価格は、たちまち3千円から5千円となってしまった。皆が驚きの声をあげた。当時。いかなる名品でも1点2千円を越えたことがなかったからである。大きな郡守の月給が70円、千円あれぱソウルの大きな屋敷が買えた時代である。呼び声は6千円を越え、7千円の声が上り、これで落着かと思われた時、それまで沈黙を守っていた新保が「8千円!」と叫んだ。売立人が8千円を二度叫び落着を告げようとした時、中頃の座席から「9千円!」と呼ぶ声がかかった。またも大幅の呼声である。人びとは新しい声の主に注目した。それは山中商会の会長であった。
 こうして二人の競走者が明らかになった。人ぴとは固唾をのんで事の行方を見守った。
 新保は自信満々と「1万円!」と呼ぶと場内は「ホウ」という嘆声が上がった。高さ41cmの瓶に1万円の価がつくとは、陶磁の歴史にかってないことであった。
 火華を散らす「セリ合い」となった。呼声は5百円単位で上がって行き、新保が「14500円。と叫んだ時、山中側は疲れたように「14550円」と呼ぶのであった。峠は越したのである。新保が「14560円」と呼ぶと、山中は一度はそれに10円を付けたけれど、その声に力はなかった、新保が「14580円」と力強く叫んだが、それを越える声はなかった。売立人の競落棒が「タン!」と机を叩くや、思わず場内から嘆声と共に拍手が沸き起った。こうして歴史に残る競売は決着がついたのである。国際的な資本を相手にしての澗松の断固たる決意の表明であった。そこに居合わせた何人もの人が何十年も後にその時の様子を書き残している。それ程、強烈な印象を残した歴史的な神話を生んだ場面であった。その時、澗松はまだ弱冠31歳、その後も様ざまな苦難がつづくのであるが。

 北壇荘と葆華閣の設立

 文化財莵集を本格化してから、次に、それを保蔵し、研究をする施設が必要となる。適当な場所はないかと探していたのであるが、現在の城北区に1万坪の土地を見つけることができた、呉世昌が喜び、この地を北壇荘と名づけたのである。この土地はあるフランスの石油商が19世紀末に来て財をなし、この地に洋館を建て住んだ所である。
 澗松は、この土地が気に入り、活動の根拠地が出来たことを喜んで、当時の名筆といわれる人にその懸額(ケンガク)を頼んでいる。また回りにあった韓屋を改装して表装作業場を作り、買い入れた重要文書を表装し、桐箱を作って呉世昌に表書きを頼み、保存に万全を期した。1934年からのことである。
 さきの陶磁器と共に澗松の蒐集に権威を与えたのは。長く日本に滞在しながら高麗青磁の美しさに魅惑され、優秀な高麗古磁の莵集に心血を注いだジョン・ケズビー(Sir.Jhon Gadsby)のコレクションの購入である。
 ジョン・ケズピーは英国の弁護士で、数十年間、東京に居住しながら弁護士として働き、かつ最高級の高麗青磁の蒐集は質量ともに当代最高秘のものとして識者に知られていた。
 高齢となり、故国に帰るか、どうか。その時、蒐集品の処分は、一部か全部か。収集家たちは秘かに彼の動静を見守っていたのである。洞松も同様、ある日本の大物業者によく言い含めて、譲与の気配があれば逸早く通報してくれるよう手配をしておいたのだ。
 秘かに待っていた報せが、ついにやって来た。「遠からずケスピーは、私に一任して、全部を処分するといっている。本人に会う日を電報で知らせるから準備されたし。」-またと無い喜ばしい消息であった。
 澗松は、このコレクション購人のため、急いで公州周辺の5千石を生産できる田圃を処分したのであった。(それが何十町歩となり、今の金で何百億円となるか、筆者にはわからないのであるが)
 ケズピーは25歳の青年弁護士として日本に来て、東京駅に近い三菱ピル街の一角に事務所をかまえ、次第に有力な弁護士として知られるようになったが、透徹した鑑識眼と情熱的な蒐集力によって質の高いコレクションを作り上げた。日本国内はもちろん、しばしばソウルに現れて骨董店巡りは言うまでもなく、業者に高額の謝礼を払って、収集家から希望する対象を入手することもしばしばであったという。
 ついに東京から日時を知らせる電報が来て、渭松は勇躍出発した。東京駅に着いたのは奇しくも二・二六事件一年後の同日であった。彼は出迎えの業者にあわただしく「確かに全部処分するのだね」そして「何故処分するのか」ときくのだった。業者は「確かに全部を」そして「ケズビーは昨年の二・二六事件を見て、今後、日本は軍部の台頭を抑えられず、日本は遠からず米・英と全面戦争に向かうことが予測されるので、速やかに重要財産を処分し、帰国を準備する気になったのだ」と答えるのであった。
 彼の邸宅は宮城の裏側に当り、庭に囲まれた瀟洒な建物であった。彼はソウルから来た青年を見て奇異な感じを持ったようであるが、いま熱心に陶磁器を集めている全鎣弼と聞いて、「ああ、澗松とは君のことか。良く聞いている」と歓迎してくれるのであった。彼も日本人が権力と金力をもって、理不尽に朝鮮の美術品を日本に持ってくることに反感をもち、朝鮮人コレクターが少しずつ増えていることを喜びたいと言うのであった。
 金額は業者が澗松と相談し、かなりの額を提示し、ケズビーも満足し、澗松も納得のいくものであった。ケズビーは記念のため高麗青磁陽刻牡丹紋餞盞1個と高麗青磁香盒1個を記念にいただくと言い、「あなたは若く健康だから、優れた貴国の古美術品を集め、世界に広く紹介して下さい」と激励し、澗松も「あなたが努力して集めた美術品を、あなたに劣らず精一杯大切にいたしましょう」と約束した。二人は古い友人のように親しくなった。
 こうしてケズビーの蒐集品の一括収蔵によって澗松高麗磁器のコレクションは質的に世界一流のものとなった。
 この時、国宝となった「青磁象嵌蓮池鴛鴦(エンオウ)紋浄瓶」をはじめ国宝3点、宝物3点を含む香炉、花瓶、大皿、酒杯など、初めからそのような巨大な蒐集を達成することは夢のようだといわれるコレクションを一度に収蔵することができたのである(「渭松文華」各号参照)。
 次に提議されるのは、ここにわが国最初の私立美術館を作り、これまで集めた文化財を屡示し、人びとに民族的な誇りを持つようにすることであった。
 日帝は1937年7月7日に、蘆溝橋で中国軍を攻撃、中・日戦争が始まり、その後、日本軍は中国への全面侵略戦争を開始する。長期戦を予想して、日本は朝鮮の兵站基地化を急ぐと共に、38年、朝鮮人陸軍特別志願兵制度を作り、朝鮮青年を軍隊に入隊するよう強要し、かつ朝鮮教育令を改悪して朝鮮語科目を全廃するのである。
 すでに物資の統制が始まり、ソウルへの糧穀搬入も統制されるようになる時期に、澗松は美術館として最高の設備を目ざし、設計は朝鮮近代建築の開拓者である朴吉龍(1898-1943)が担当し、資材も階段は大理石を用い、展示ケースも有名なイタリア製品を輸入するなど、民族の誇りをかけて日本の物資統制に対抗したのである。

<葆華閣:朴吉龍設計>

 ついに1938年7月5日、朝鮮に初めての私立美術館である葆華閣の上棟式がとり行われた。75歳の高齢となっていた呉世昌は、生前にこのような慶事に会えたことを喜び、定礎銘に次のように刻んだ。
(短縮・意訳)「澗松・全君の葆華閣上楝式がとり行われた。喜びにたえず、銘を作り祝賀する。萬(よろず)の物が新建築を満たし、千秋の精華は、朝鮮の誇りである。人みなの誇り、子孫は長く保存したまえ。呉世昌」
 現在、澗松美術館となっているこの建物は、建築されてすでに80年を経ているが、何の故障もなく、その役割を果たしている。
 葆華閣の完成は、当時暗雲ただよう朝鮮において、人ぴとの大きな喜びであった。その時、上棟式に集まった人士の写真を見ても、一流の人びとが集まり喜びを共にしたことが見て取れるのである。

<藻華閣棟上式に参加した名上たち>
(左より四人目が澗松、その左が呉世昌)

 澗松は、この頃、呉世昌を通じて京城帝大で唯一人、文学部美学科を卒業し、朝鮮における美学、美術史の草分けとなった高裕燮(1905-1944)と交友が生じ、さらに高裕燮の弟子である黄寿永、泰弘燮、金元龍などの少壮気鋭の学者だちとしばしば接し、かれらの研究を何くれとなく助けたのであった。

 澗松の古書籍蒐集

 澗松が早稲田大学の学生の頃から書物を好み、関心を引く書物を集め出したことは先にふれた。文化財蒐集と関連して、文書の蒐集保存の必要を痛感して本格化するのは、彼の25歳となる1930年からと思われる。
 その頃の事情を、彼が1960年頃に発表した「蒐書漫録」に探ってみよう。
 「さて、以上は私自身の学生時代から1冊2冊と本を集めてきた話であるが、その後、志のある先輩や友人たらが、君はかなりの本を集めたが、さらに一歩進めて、いま君が熱心にしている古美術蒐集の一部分として、日毎散逸しているわが国の書籍も集めたらどうか、そのためには君は門外漢だから、古書に明るい専門家の助力をえて立派な文庫を一つ作ったらどうかと、親切な勧告を受け、私もそれは良い意見だと思い、それに従うことにしました。その準備をしている時、丁度有名な古書店の翰南書林を譲るという話が出て、私がそれを引き受けることになりました。今から約26,7年前のことです。
 この翰南書林(中略)の業務を長く担当した金同圭氏と、私の親しかった故李淳璜氏と、現在華山書林の主人の李聖儀氏など、古典籍に明るい何人かが協力して、わが国の誇りとなる立派な文庫を一つ作ろうという私の志に賛同して、新しい抱負と意図のもと新しい出発をした訳です」(1932年頃のこと)。
 こうして澗松は有力な協力者を得て、陶磁器や金弘道、申潤福などの絵画の蒐集と平行して、朝鮮の古典籍数万巻に達する蒐集を進めたのである。この成果は、先ず調査を終えた部類を選んで刊行された「澗松文庫漢籍目録」(1967年)に記録されている(ここには、すでに国宝となり「国宝図鑑」第2篇に紹介されている「訓民正音」、「東国正韻」、「琴譜」の三冊は除外されているのであるが)。内外屈指の漢籍文庫を立ち上げたことは、個人の力で成し遂げた大きな成果といわねばならない。
 ここでは、「訓民正音」発見に到るエピソードだけを紹介しておきたい。
 1942年夏のある日、澗松は翰南書林に立ち寄った。いつも李淳璜が尋ねてきて情報を伝えてくれるので、特に立ち寄る必要もなかったのであるが、何故か翰南書林に向かったのである。窓の外を眺めていると、いつも仲買いをしている骨董商一人がツルマギ姿で急ぎ足で過ぎるのが見えた。様子が何かおかしいので李淳璜にあの人を連れて来てくれと頼んだ。しばらくしてやって来た人に澗松が笑いながら「急がしく、どこに行くのだね。大事なことでもあるのかね」と聞くと、その人はつい本音を吐いてしまったのである。「実は今、慶尚道安東ですごい物件が出たという情報が入ったのです」「すごい物件とは。もちろん漢籍だろうね」「エエ、ごく大物です」横にいた李淳璜がじれて「早く話しなさいよ」と催促すると「<訓民正音>原本が出て来たというのです。」

 澗松は急に心がつまり、意諏がボットしてしまう感じであった。世宗大王がハングルを創制した時、刊行したという原本。存在したということだけが伝説のように伝えられている訓民正音の原本が出てくるとは。

 

 しかし今、日帝は国語教育を禁止し、刺鮮語学会員を弾圧し、刺鮮史研究会である震檀学会を解散させるというのに、彼らがこれを知ったら・・・。
 「本の主人が1千円を要求したそうです。それで金を準備しようと行くところです」
 澗松は、その手を握り、静かに話しかけた。
 「私と何度も付き合って知っての通り、物はその価値により代金を払うものです」澗松は1万1千円を渡しながら「本の主人に1万円を渡し、千円はあなたの御苦労代です」
 こうして訓民正音は日帝のもとで無事に保存されることになったのである。同様にして救い出された金弘道、中潤福の画帳など、など、話の種は尽きない。その後、同族殺し合う朝鮮戦争を経て今日に到る経過については、彼の誕生100周年を記念する「澗松文庫」70号をみられたい。
 こうして財を傾け文化財を保護し、尊敬する文化人の生活を援助し、少壮学者に研究費を人知れず伝え、学術誌の刊行を援助した澗松は1962年1月26日、病のため急逝してしまう。まだ壮年の56歳であった。
 彼の死後、夫人の金點順氏が財団理事長となり、3男晟雨氏はオハイオ国立大学で美術学博士となり、4男瑛雨氏はソウル美大を卒業、さらにソウル大学校文理大考古学科を卒業して、澗松の遺業を継承発展させようとしている。
 その後、北壇荘には韓国民族美術研究所が設立され、葆華閣が改称された澗松美術館がその付属博物館となっている。韓国民族美術研究所では1971年以来、5月と10月に美術館を公開し、その図録と研究倫文を付けて「澗松文中華」として発行し、第70号では澗松生誕百周年を記念したのである。

 

〔付記〕なお在日同胞の中にも澗松・全鎣弼の志と同様、日本に流転している朝鮮の文化財を蒐集し、民族の正気を保存しようとする人がいるのであって、その方々については機会があれば紹介しておきたいと思っている。
 例えば、姫路市の泗川子翁、斗庵金龍斗氏。京都の高麗美術館を設立した鄭詔文氏など。

参考文献

 「澗松文華」41号、澗松先生評伝
 「同  上」51号、澗松の文化財蒐集の話
 「同  上」55号 澗松・全鎣弼と葦滄・呉世昌
 「同  上」70号 澗松・全鎣弼
 「失われた朝鮮文化」李亀烈、南永昌訳 神泉社 1993年

筆者略歴

 1953年 名古屋大学文学部哲学科卒業 60年、同校大学院終了。
 1961年から朝鮮人学で哲学、朝鮮哲学史、朝鮮文化史を相当。
 朝鮮民主主義人民共和国教授、哲学博士
 現在、大阪経済法科大学客員教授、この間、立教大学、津田塾大学、東京都立短大などの講師を歴任。著書に、『朝鮮文化史』(太平出版)、『朝鮮近代の開拓者』(朝鮮青年社)などがある。

「科学と未来」第9号に掲載

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