連載 ■ 韓国の財閥 第2回

 連載 ■ 韓国の財閥 第2回 

李秉喆略伝 ─ 一代にして大財閥資本へ ─

金 哲央

 一代にして韓国屈指の財閥企業を作りあげ、いまや最先端工業を含む巨大な企業集団として世界的に名を知られることになった「三星グループ」の創建者、李秉喆(1910~1987)はどのような青少年時代を送り、どのように企業を発展させてきたのか。そして、その企業運営の特徴はいかなるものか。また、彼が展開した文化事業や、今後の見通しなどについて大まかな紹介をして見よう。
 
 
[1] ビョンチョルの青少年時代
 
 彼は慶尚南道宜寧郡正谷面の月城李氏の出身で、朝鮮が日本の植民地に転落した1910年の生まれである。父は李纉雨(1874~1957)。祖父は「文山文集」を編さんした有名な儒学者で、彼は幼時から祖父の書堂で『論語』などを学んだという。
  生家は一千石の豪農で、開化の時代を迎えて、新式の教育を与えるため、11歳の時、姉の婚家のある晋州の智水普通学校(小学校)の三年に編入した。旧式の古典の暗唱に終始していた書堂からの解放は、よほど新鮮であったようで、それならさらに開化の進んだソウルに進学したいということで、同年、母の実家のあるソウルの寿松普通学校に転校した。四学年を終えた時、さらに学齢の遅れを取り戻したい気持もあったのであろう、中東中学校速成科に入学、一年間で小学五・六学年の過程を終えて、1926年4月、本科に入学した。ところが、その年の秋、家から一通の手紙がとどいた。「お前の結婚が決まったので12月5日(陰暦)家に帰るよう。」そして、その日、初めて見る慶北道達城郡出身の朴杜乙女史と結婚式をあげたのである。
 1929年、中東中学四年修了。当時、四年を修了すれば大学進学が認められていたので、父に希望を述べて、東京の早稲田大学専門部政経科に入学。あこがれの東京生活を始めることができた。ここで後に社会主義者になって北へ行く李舜根などに会うが、自身は別に思想運動には関心を持たなかったという。
 それよりも生活の急変と偏食のためか脚気となり、やむなく翌年学業を断念して早大を中退し、故郷やソウルで何年も無為の生活を送ることになる。
 ところが転機が突然やって来た。その日も骨牌賭博にうつつをぬかし、夜遅く家に帰ってきた。明るい月光が窓を通し部屋を照らしていた。すでに24歳。いつしか三人の父親となっていた。月光に浮かぶ子供たちの寝顔を見た瞬間、突然悪夢から覚めた気持がしたのだ。
 「あまり無駄に月日を過ごしてしまった。志を立てねば!」その日は一睡もできず、何か「事業」を起こそうと決意したのである。それは34年10月のことであった。

最初の事業―精米所の開業

 何日か後に、父にこの決意を話すと、激励の言葉と共に若干の財産を分けてくれた。
 どこで、何をすべきか。大邱,釜山, 平壌にはすでに日本人が入り込んでいて商機はないようである。そこで彼は馬山に注目した。慶尚南道の農産物の集結地であり、ここから朝鮮産の米が年間数百万石も日本に移出され、そして朝鮮農民用にと、満州から大豆、高粱などが輸入される港湾都市である。精米所は常に能力を超え、周囲には「もみ俵」が山をなしていた。
 「これだ! ここで街一番の精米所を作れば、必ず成功するに違いない!」 そこで二人の友人を説得して一万円ずつ出資し、一方、殖産銀行馬山支店長に誠意をもって融資を頼み「協同精米所」を立ち上げた。
 この事業は予想どおり成功を収め、さらに余勢を駆って「馬山日出自動車会社」を買い取り、トラックによる運送業へと事業を拡大することができた。
 次に、彼は次々に金海平野の農耕地を買い入れて行った。資金は要求するままに銀行が融資をしてくれた。いつのまにか200万坪の大地主となっていた。さらに彼は銀行の融資を当てにして釜山・大邱の住宅用地まで買い集める仕事を進めた。
 ところが、ある日、突然、銀行から今後一切の貸出しを中断するという一通の手紙がとどくのである。1937年7月、中日戦争の拡大にともない断行された日本政府の非常措置であった。
 暴落する土地を投げ売りしても借金は埋まらず、ついに精米所と運送会社も処分せねばならなかった。やっと残ったものは、十万坪の耕地と現金二万円であった。
 天変地異の不運の中でも、幸いであったのはすべての負債を処理できたことである。30歳前の若者には大きな教訓となった。
 ここから彼は事業する時には、①国内外の情勢の変動を的確に洞察せねばならず、②無謀な欲望を捨て、自己の能力と限界を冷静に判断せねばならない。③運を期待する投機は禁物であること、④直観力の練磨と第二,第三の対策が必要だし、失敗と判断すれば、すみやかに次善の策を講ずること、などを身にしみて学んだのである。
 この若い時の貴重な失敗の経験が、のちに経営の方針として生かされていくのである。
 
 
[2]「三星商会」の設立
 
 これまでの事業をすべて整理したのち、新しい計画を立てるための視察旅行に出発した。釜山より始めてソウル、平壌、新義州、元山、興南などを巡り、さらに新京(長春)、奉天(瀋陽)など、当時満州といわれた都市をまわり、ついでに北京、青島、上海まで足を伸ばした。
 二ヶ月の旅行により、青果類と乾魚類および雑貨の貿易に従事するのが良いと思われた。根拠地を大邱の西門市場に近い竪洞とし、250坪の店舗を買い「三星商会」と看板をかかげた。 資本金は3万円. 1938年3月1日、28歳の時であった。これが「三星」の母体となって行く。
 三星の「三」は、大きく、多くて、強いという意味で、わが民族の好む数である。「星」は清く高く、永遠に輝くという意である。強大にして永遠であれ―再出発に当り、このような願いを込めて掲げた商号であった。
 こうして大邱一帯で生産された青果類と浦項の乾魚類を満州と中国に輸出する仕事が始まった。馬山の時の失敗を考え、農業の作柄や漁業の情況については絶えず調査を怠らなかった。輸出は順調に増えて行った。
 間もなく早稲田時代の李舜根氏を支配人に迎えることにした。彼は卒業して帰国していたが、学生運動が仇となり、就職できないでいたのだ。彼の人格を信じ、手形の発行、印鑑の管理など、殆んどすべてのことを彼に任せたのである。「疑人勿用 用人勿疑(人を疑うなら採用するな。人を採用するなら人を疑うな)」 人を採用する時,慎重に人を選び、いったん採用したならば大胆に仕事を任せる―これがその後の三星の方針となった。
 三星商会のその後の急成長は、厚い信任に応えた李舜根氏の力が大きかったが、彼はその後、解放を迎えて本格的に左翼運動に献身するため、辞任し、のちに北へ行ったという。
 事業の拡大を考えていた時、大邱でも大きな清酒を作る朝鮮醸造という会社が売りに出されていることを知り、ただちに買い入れた。
 また、日本敗戦後の食糧難に備えて大邱郊外に一万坪ほどの果樹園も買い入れた。
 ついに8月15日、日本天皇の無条件降伏のラジオ放送が終わるや、街中から「独立万歳!」の歓喜の声が湧き起った。
 間もなく米軍の軍政が実施され、李承晩も帰国する。彼は何度も李承晩に会って意気投合し、米軍支配の下で南半部だけでも選挙を実施し、李大統領のもと資本主義の道を歩むとの方針に、全面的に賛同するのである。
 1947年5月、彼はソウルに買い入れた大豪宅に移り、「三星物産公司」の看板をかかげ、香港、シンガポールなど東南アジアとの貿易に従事する。輸入したあらゆる商品が、通関するや否や売り切れとなった。三星物産公司は、たちまち国内の最大手となった。
 事業というものは意欲だけでなく時期と人、そして資金の三拍子がそろうことが必要だと彼は痛感したのである。
 ところが、わが民族にとっても、彼の事業にとっても、大きな試練が突発する。朝鮮戦争である。彼は北の統治下でのソウルの生活を三か月,息を殺して過ごした。そして三か月後の9月15日のマッカーサーの仁川上陸を歓喜して迎えたのであるが、北上した米軍が鴨緑江に迫るや、中国人民軍の参戦となり、再びソウルは北の治下に入るのである。そこで彼は、すべてを捨ててトラック5台に社員や家族を乗せて大邱に避難する。
 彼らを迎えた朝鮮醸造の責任者は、こう言うのである。「社長、心配はいりません。三億円ほど備蓄があります。自由に使って下さい。」逆境により真の友がわかったと彼は言うのだ。
 
 
[3] 製造業への決意
   ─ 「第一製糖」設立 
 
 1953年7月、一進一退の戦況であったが、やっと停戦協定が結ばれ、戦火が静まることになった。しかし物資不足は深刻で、食糧はもちろん日常の雑貨も乏しくインフレは加速していた。
 大邱に避難して3億円の資金を与えられた彼は、臨時首都の釜山へ行き、古参の社員を集めて三星の再建を急いだ。3億円の資金で会社を「三星物産」と改変していたが、事業は急激に発展して、1年後の決算はインフレ時期とはいえ20倍の60億円に増加していた。
 しかし心の中は、なにか満足できないものを感じていた。「自ら選んだ仕事ではあるが、貿易業ではなく、もっと重要な事業があるのではないか。」もちろん当時にあって貿易は社会の最も重要なしごとではあった。しかし、次第に彼は次のように考えるようになっていた。
 「国民が日常使う消耗品を輸入にのみ頼るのでなく自国で生産すべきではないか。人的資源の他には資源の乏しい韓国にあって、原資材を輸入し、それを多様な商品に加工して輸出するのが韓国の生きる道ではないのか。そのため優れた技術と加工・生産の施設を持つ製造業こそ必要なものではないだろうか。」
 この考えを三星物産の幹部や政府関係者に説いたけれども,殆んどの人が否定的であった。いまだ社会が不安定なうえに、資本投下して製品が産出されるまでの懐妊期間の長い生産工場に膨大な資金を投下するのは無謀だというであった。会社の興亡にかかわる問題であるだけに、社内で何度も会議をもったが積極的な意見を述べる人は少なかった。最終の決断を下すのは最高責任者の任務である。彼は熟慮の後、製造業への投資の決断を下したのであった。
 製造業の業種は何にすべきか。調査の結果、製紙、製薬、製糖は国民生活に必需品であるにかかわらず、国内には何も生産工場がないことが解った。これについての企画と見積もりを日本の三井物産に依頼すると、製糖は三か月後に届いたが、製薬は6か月、製紙は8か月かかるとのこと。1カ月の時間が惜しく1953年4月、三星物産の社内に製糖会社創立事務所を設置し、6月に発起人総会を持った。休戦協定一か月前のことである。株主は主として彼と三星の幹部たちが出資した。
 社名は「第一製糖工業株式会社」とした。この「第一」に彼の期待と決意が秘められている。
 三井物産の見積もりによれば計18万ドルの外資が必要であったが、政府当局の支持によって18万ドルの配分を受けることができ、内資の不足分は商工銀行の理解によって2千万ウォンの融資を受けることができた。間もなく田中機械のブランドは釜山港に到着したが、機械の組立、試運転までに必要な日本人技術者は、李大統領の排日政策によって一人も入国許可が降りないのだ。
 やむをえず国内の組み立て会社に問い合わせたところ設計図があれば可能であろうという。彼らに組立を頼むことにした。ところが今度は日本側が、それでは製品に責任が持てないから困ると言い出した。当然のことながら、また韓国の技術でできるのか、という気持ちもあるようである。責任の追及はしないことにして国内陣営だけでやることにした。困難の連続であった。国際電話もきわめて不便な中を悪戦苦闘しながら、予定工事を2か月短縮して完成を見たのであった。建坪800坪、台湾の原糖により日産25トンの規模であった。
 試運転の過程で不具合もあったが、ついに1953年11月5日、純白の精製糖が湧き出したのであった。
 こうして100%輸入に依存していた砂糖は、3年後には国内需要の7%のみを輸入に依ることになり、国内価格も3分の1となった。これを見て他の企業も製糖に参加し、混戦となったが、第一製糖は経営合理化を進めると共に製粉工場を併設し、さらに調味料、食用油など30余種の加工食品、配合飼料と肥料まで生産する総合食品メーカーとなって事業を拡大させた。1978年には国際水準の食品研究所を設立し、微生物発酵・抗生物質などの医薬品の国産化など先端技術へと拡大させていった。
 これらの経験から三星は,はじめて韓国における重化学工業や電子工業へと移転する契機をつかんだのである。商業資本から産業資本への転換といえよう。
 彼はその成功に満足することなく、綿密な調査の末、1954年9月、わが国に初めてとなる「第一毛織株式会社」を立ち上げた。「衣・食・住」は人間生活に最も重要なものとされる。この衣の生活に革新をもたらす毛織物の自給自足を企業化しようというのである。これも政府の強力な支援をえて、主要機械は西独より、付属機械は英・伊・仏などの国から最高の性能をもつものを投入した。
 毛織工場といっても、西洋では近代産業が発達して製糸・染色・加工・織布など工程別にそれぞれ専門化、分業化ができているのであるが、それのない韓国では、これらの工程を総合して一貫生産を行わねばならないし、工場建設に当たっては立地・気象・水質・交通・技術指導など数10項目にわたる専門知識が必要で、少なくとも外国から60名の専門家の1年間の指導が必要と言われたのであるが、大胆に主要部門4名のみの派遣を頼み、その他は自力で完工を目指したのである。大邱市の北部、佔山洞に7万坪の敷地。全館スチーム暖房。女子工員の寄宿舎も立派なものを計画した。
 社員、技術者、現場作業員の一致した情熱の結果、1956年初までに予定を半年も短縮して綜合工場の完成を見たのである。
 その製品「ゴールデンテックス」は、国民の支持を受けて英国製、日本製を駆逐し、ついに英国に輸出され好評を受けるにいたった。
 
 
[4]「韓国肥料」の建設から大財閥資本へ
 
 朝鮮戦争停戦後も、韓国社会の混乱はつづいた。1960年4月19日、学生、市民は李承晩独裁政権打倒のデモを起こし、これは全国に広がって李承晩はアメリカに逃亡したが、これに代わって1961年5月16日、朴正熙を中心とした軍部が政権を握るにいたった。
 この間、彼は次の計画として肥料工場建設を計画していた。当時、国内で必要な肥料の殆んどすべてを、貴重な外国からの援助資金の40%を使って輸入していたのである。さらに肥料の需要は年ごとに増加することが予見されていた。
 彼は、この工場建設に必要な外資を諸外国から借款導入によって解決しようと、1959年秋から日本、米国、西独などを巡り、それが可能なことを知った。また、帰国の途中、東京に立ち寄り日本の主要な経済人とゴルフを共にしながら親交を深めたりした。
 しかし、この間、1961年5・16の直後、国民から不正蓄財者第一号として糾弾され、朴正熙に申し開きする過程で相互の理解を深めることもあった。
 「不正蓄財者を処分せよ」との国民の声に押され、朴政権は主な企業家10数名を逮捕し、追徴金も課されることになった。彼は朴正熙に「経済人に罰金の代わりにそれぞれ基幹工場を建設させ、その株式を政府に納付させたらどうか。経済人を有効に活用すべきである」と説いて、自身は肥料工場を担当しようというのである。
 結局、長年の念願であった肥料工場は、朴大統領の直々の依頼もあって、68年8月に日本の三井物産から4190万ドルの借款を受けて着工となった。外国民間借款導入の第一号となったのである。その後、日本資本の導入は、65年、韓国側の一方的譲歩によって妥結された「日韓基本条約」以後、さらに促進されるのである。
 なお、60年代初めに第一製糖を主舞台として「三粉暴利事件」――砂糖、小麦粉、セメントに携わる財閥が価格操作と脱税によって暴利を貪り、その一部が与党の民主共和党にながれたとして三星代表の彼は社会的非難を集中的にあびたし、その後も韓国肥料は60年、「韓肥事件」(サッカリン密輸事件)を引き起こし、三星は文字通り買弁的な「罪閥」の汚名をほしいままにすることになった。
 この事件を契機に、彼は韓国の株式の51%を国に献納を約束し、責任を取って経営から退くが、若干時間をおいての復帰後は、満を持して最初の事業として電子分野への進出となるのである。この分野における三星の事業は、後継者問題とからんで長男孟熙と次男昌熙は次第に排除され、この分野に明るい三男の健熙が後継者と目されるようになり電子分野への成功を収めて行くのである。

 紙面の関係上、それ以後の彼の企業の発展をくわしく述べることはできないが、それ以後、彼の企業は綿密な準備のもとに石油化学、造船、精密機械、航空工業、電子、半導体、コンピューター、遺伝工学、生命保険、百貨店、軍需産業、マスコミ、自然農園など、などへと拡大・発展して行くのである。
 
 
[5] 三星文化財団の設立
 
 1965年、彼は55回目の誕生日を迎えるに当たって、これまで慎重に計画してきた「三星文化財団」の設立を公表した。財団の基金は自己の持っている株券と不動産によるものとし、第一製糖、第一毛織、東邦生命、新世界などの株式のうち個人の持ち株分10億ウォン相当と釜山市龍湖洞の林野10余万坪を寄付したのである。
 6年後の1971年にも2回目の寄付を行なった。その時、個人所有の財産を調査したところ、180億ウォンと評価され、その3分の1である60億ウオンを三星文化財団に追加寄付した。他の60億ウオンは家族と三星グループの有功社員に株式として配分し、残った60億のうち10億ウォンは社員共済組合基金に寄贈し、50億は自身が保管し、これから使用方法を考えることにした。
 これを1971年、株式総会の後の代表理事会の会義で「私財三分化」の方針を公表したのであるが、これはマスコミに大きく報道され、一部では「何か伏線があるのかも」とされたが、多くは「果断だ」として好評であった。
 この財団の最初の事業として、三星物産の発生地である大邱にある大邱大学が運営難におちいっていることを知り、この事業を引き受けたのであるが、大邱に綜合大学を作りたいという朴正熙大統領の強い要請により、これは譲渡された。
 一方、三星奨学会の事業も文化財団により継承発展されることになった。そして学生に対する奨学金のみならず学術研究機関や研究者の活動に対しても支援する制度が作られたのである。
 さらに財政難におちいっていた成均館大学校を引き取り、運営を正常化すると共に、これまで人文科学系に片寄っていた学部編成を理工系教育の強化を念頭に、まずその拠点として科学館を新築して寄贈し、1977年からは4個の単科大学から8個に、学科は25個から40に、学生数も3600名から7000名となり、校地も1万坪から2万7千坪と拡大されたのである。また医学大学の建設も構想された。その後、この大学は運営を政府に委譲された。
 また、新書版で出版されることになった「三星文化文庫」は、第1巻をフィヒテの「ドイツ国民に告ぐ」から始まり、「朝鮮常識問答」崔南善、「三国遺事」一然など、数百種を出版し、高校や大学、公共図書館に寄贈され、一般にも販売されて、総刊行部数は数千万部となっている。
 さらに、この財団は朴大統領の要請により忠武公李舜臣を祭る牙山の顕忠祠と周囲十数万坪の造景工事を行ない、立派なものに仕上げている。
 晩年に近い彼の活動の中で特異な位置を占めるのが私立美術館として最大の規模を誇る湖巖美術館の建設である。
 彼は大邱で三星商会を設立した頃から、すなわち30歳をすこし越えた頃から、書画類の蒐集を始め、次第に新羅土器、李朝白磁,高麗青磁へと領域を広げて行った。
 それは民族の文化遺産に対する愛情と蒐集慾に基づくものであるが、一方では、全鎣弼氏(チョンヒョンピル、1906~62)が民族精神の固守のため自国の美術品を保護しようという使命感をもって、1930年代から日本の文化財略奪に対抗して蒐集を始め、人びとから大きな尊敬を受けていたことも念頭にあったかも知れない。(参照、全氏の澗松美術館)
 いずれにせよ李秉喆は、持前の執拗さと金力にものをいわせて狙った物は必ず手に入れて行った。三国時代の金冠,青磁象嵌雲鶴牡丹菊紋梅瓶などの逸品を入手すると、彼に批判的な人は、「個人として国宝級の宝物を私有すべきでない」などと反発を引き起こすほどであった。
 その苦心の蒐集品2万点(国宝,宝物多数を含む)が、1975年、ソウル近郊の龍仁自然農園の丘の上に彼の号を取って名づけられた湖巖美術館に収められ、その名称も三星文化財団と改変された財団によって公営化されることになったのである。
 この美術館ではさらに国内外の現代美術を展示し、さらに蒐集を拡大している。
 また、マスコミにも進出し、1965年9月より「中央日報」が発刊され、三星グループの意見発表にも強力な役割を果たしている。
 
 
[6] 彼の経営方針と晩年
 
 李秉喆は、その自叙伝の中で、「自分の日課は数十年間変わりなく、朝6時に起床し、夜は10時に就寝する。生活リズムはめったに破らない。目覚めていれば寸時も無駄にしないが、一度床に入れば、すべてを忘れて眠ってしまう」といっている。規則的な行動の原理があるのである。
 こういう原理は、彼の企業経営にも見られる。企業運営の基本は責任経営制であり、信頼する各責任者に全権を委任する体制を取ってきた。傘下の企業の増加に従い「秘書室」を置き、グループ全体の統括を秘書室にまかして来た。企画・調査・人事・財務の調整、監査など、三星秘書室(後に企画総合室に)の機能は、三星企業発生以来のものである。
 そして、彼自身は経営、運営の原則と人事の大本だけを見てきたし、三星経営の原則を継承する人材の発掘だけを、自己の任務として来たといっている。
 三星の「人材第一」という経営理念に基づいて、57年から韓国で初めての公開採用社員募集を行ない、それは毎年、数十倍の難関となっている。また社員研修制に大きな努力をはらい、かつ社員の業績の評価を厳正に行ない信賞必罰を実行する人事考課制、さらに世界に進出するための語学検定考試制などを早くから実施してきた。
 社員研修のためには広大な龍仁自然農園の中に千名を一時に受け入れる大型研修施設を作っている。
 さらに、三星企業の特徴として指摘できるのは、企業付設の研究所が多数設立されていることである。80年の三星電子総合研究所をはじめとして、第一製糖遺伝子工学研、三星電子半導体研、三星電管総合研(以上82年)、三星電子生産技術研、三星データシステム技術研(以上85年)、三星重工業船舶海洋研、三星重工業総合技術研(86年)、コリアエンジニアリング  技術研(87年)、三星電子中央研(89年)などである。これが各秘書室および生産現場と密接に連結して効果を上げるのである。
 なお、三星の海外進出にともなって、注目すべきことは、各種の「研究室」を先進諸国に設けていることである。ここに国籍を問わず優れた研究スタッフを集め、研究、実験、調査、情報の蒐集を行ない、その成果を国内の「秘書室」に送っている。
 こうして三星はたえず製品の質の向上に努めてきたし、社会の需要をいち早く受けとめ、新製品の生産に努力してきた。70年以後では真空管、ブラウン管の生産、時計用・TV用のIC生産、VTR(ビデオ・テープレコーダ)、電子レンズ、ジェットエンジン組立て、X線フィルム、パソ・コン、8ミリVTR,さらに半導体製造分野では90年代に入って64メガ半導体(DRAM),94年には256メガDRAM,96年には「夢の半導体」いわれる1ギガDRAMをそれぞれ世界最初に開発し、この分野で世界の頂点に立った。また液晶や携帯電話の分野でも世界有数の企業として成長し、世界70余国へ現地法人、現地工場、支社を設立し、世界有数の企業として認められている。
 植民地の時代に生まれ育ち、解放後も幾多の危機と紆余曲折を乗り越えながら、肯定的な企業と生産の原則を貫き、大きな財閥企業集団として発展させ、朝鮮半島の分断という条件の中でも,韓国をGNPでは世界第十位に押し上げた企業集団の一人として、大きな事業をなしとげたと言わねばならない。
 彼は李承晩、朴正熙などの暴圧的な政権とも利用し、利用される関係を維持して企業の発展を図ったし、1970年代の激しい労働運動・民主化運動の時代には、傘下の工場で労資の対立が激化しないよう予防対策に腐心したことは言うまでもないことである。これらのことは、多くの人を動員して書かれたという「自伝」には、少しもふれていないことであるけれども。
 1970年代よりねばり強くつづけられた韓国の民主化闘争は韓国社会発展の大きな原動力となるのであるが、企業家たちは勤労大衆との鍔ぜり合いの中で鍛えられて行ったのである。
 一方、趣味としてのゴルフを通じて企業家たちとの親睦や情報交換をはかったし、豊富な資金をもって民族的な文化遺産の蒐集を楽しみ、それを三星美術文化財団に寄付し、美術館として展示できるようにもすることができた。また、新聞「中央日報」や「東洋放送」の映像を通じて三星企業の意向を伝える道を作ったし、国楽や書芸にも心を通わすことができた。まことに多彩で実り豊かな一生であったといえよう。
 1987年死去。三男健熙が次期総帥として三星グループを指揮している。

■参考文献
「湖巌自伝」李秉喆、1986,中央日報社
「三星60年史」三星会長秘書室、1998
「韓国財閥史の研究」―分断体制資本主義と韓国財閥― 鄭章淵,日本経済評論社、2007
「韓国三星グループの成長戦略」 金龍昱、韓正和,(訳)康子宅、日本経済新聞社、1997
「韓国三星財閥の内幕」―巨大企業の暗黒と李一族の野望―
孫忠武、(訳)立石進一、現代書林、1990

著者 略歴

1953年 名古屋大学文学部哲学科卒業 60年,同校大学院終了。
1961年から朝鮮大学で哲学、朝鮮哲学史、朝鮮文化史を担当。
1995年退職。朝鮮民主主義人民共和国教授、哲学博士。
現在、大阪経済法科大学客員教授、この間、朝大の講師および立教大学、津田塾大学、東京都立短大などの講師を歴任。著書に、『朝鮮文化小史』(太平出版)、『朝鮮近代の開拓者』(朝鮮青年社)などがある。

「科学と未来」第8号に掲載

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