連載 ■ 韓国の財閥 第10回

 連載 ■ 韓国の財閥 第10回 

韓進グループの創建者 ― チョジェンフン

金 哲央

序言

 これまで何人もの韓国財閥の創建者を紹介してきた。今度は誰にしようかと考えているまさにその時、ナッツの出し方がおかしいと激怒した大韓航空の前副社長が、乗っていた自社の旅客機を搭乗口に引き返させ、機内サービスの責任者を降ろすという、前代未聞のいわゆる「ナッツ・リターン騒動」が起きたのである。
 大韓航空は韓国の財閥、韓進グループ傘下にあり、この事件の主人公であるチョヒョ・前副社長(40)は2代目会長であるチョヤン会長(66)の長女である。まさに「財閥3世」に当たるわけで、この事件を契機に、機内サービスやホテル事業を総括する副社長であった趙ヒョナ氏は辞任に追い込まれ、2世である父親の趙亮鎬会長も「私が教育を間違えた」と謝罪せざるをえなくなった。
 事件は、もう昨年の12月に起こったので、忘れてしまった読者もおられるかも知れないので、再び簡単に振り返って見よう。
-米ニューヨーク発、韓国仁川行きの大韓航空086便は12月5日、出発準備を終えて滑走路に向かっていた。その時のことである。ファーストクラスに乗っていた趙ヒョナ・前副社長は、客室乗務員が差し出した「ナッツ」に疑問を持った。それは袋に入ったままであったからだ。
 マニュアルでは袋からナッツを出し、皿に盛って提供することになっているはずである。趙氏は機内サービス責任者の事務長を呼んで確認を求めたが、関連規定がすぐ見つからず、許しを求める客室乗務員と事務長をひざまずかせて、これに罵声を浴びせたばかりか、趙氏の指示で滑走路に向かっている旅客機を再び搭乗口に引き返させ、事務長を降ろした後、再び滑走路に向かい離陸したのである。出発の定刻を過ぎていたことは言うまでもない。
 のちに韓国KBSの取材を受けた事務長は「私が受けた侮辱は、経験したことのない人にはわからないだろう」と語ったという。このナッツ・リターン騒動を契機として、財閥の世襲経営を問い直すべきだという意見が相次いで提起されるようになった。特に批判の対象となっているのは、趙ヒョナ氏のような「財閥3世」たちである。これまでにも大麻やひき逃げ、高齢者への暴言など、トラブルを引き起こすことが少なくなかった。
 朝鮮日報は、3世、4世は「幼いころから苦労したことがなく、問題を起こすケースが増えている」などと指摘しているし、ハンギョレ紙は「不安な爆弾 財閥3世」という連載を始めた。同紙の調査では、国内主要15グループの財閥3世28人は、平均28.1歳で入社、31.2歳で役員に登用されているとして、「財閥3世は道徳性や経営能力面で十分な検証を得ていない場合が多い」などと伝えている。
 キムサンジョ・漢城大教授は現在、韓国の財閥経営は2世から3世に移る過度期にあるとして、今回の騒動を「財閥3世らの共通した問題の一部だ」とし、さらに「3世の不合理な命令に逆らえない財閥の垂直的企業文化が根付いていることも問題だ」と重要な問題提起を行っている。
 今回の騒動を通じて、韓国経済の中に大きな比重を占める韓国財閥に「共通の問題点」がはしなくも浮上して来た感があるが、これらの問題点を念頭におきながら、「韓進グループ」の創建者・趙重勲氏の成長過程をさぐって行くことにしよう。

(1) 趙ジュンフン氏の略歴

韓進グループの歴史
 趙ジュンフン会長の経歴が韓進グループの歴史であるため、趙会長の経歴をたどってみなければならない。

趙会長の創業
 趙ジュンフン会長は1920年生まれ、徽文高普1学年を中退して慶南の鎮海にある海員養成所機関科を終了、1937年に貨物船の船員となった。5年後の1942年に船員生活を切り上げ、その間に貯蓄しておいた資金で、仁川埠頭付近にイヨン工業社を設立した。エンジン修理および再生を専門とする業体であったが、当時の自動車は石油不足のため木炭を燃料としていたので、しばしば修理・整備を必要とした。 ところで趙会長は機関科修了の技術者であったので、開業するや押し寄せる仕事のために多忙をきわめることになった。
 しかし、日帝は戦争の急迫のため、1943年8月、「企業整理令」を発令した。彼の工場は丸紅社に吸収されることになってしまった。
 趙会長は1945年8月、朝鮮が解放されるや、「この機会を利用しよう・・・・」と考えをめぐらし、11月仁川市ヘアン洞に事務室とトラック1台を準備して合資会社・韓進商社を設立したのであった。彼は常に「信用」を重視して、お客を大切にする一方、木炭車を避け、普通のエンジンを備えるトラックを補充していった。企業家の眼目と言わねばならない。
 そして操業開始いらいの2年後には、保有するトラックは14台となり、1950年には従業員は40名、トラックは30台、さらに貨物船を10隻持つ中堅貨物運送社となっていた。また多様な産業に必要とされたカーバイトを江原道の三陟の工場から直接買い入れ、それを消費する工場に販売する「流通業」も始めたのである。ところが1950年6月に始まる朝鮮戦争によって会社の車輌は全て国に徴発されてしまった。1953年7月、休戦協定を見て、再び再建のための準備に熱中してこれまでの信用と事業の感覚によって、たちまち1955年には戦争直前の水準にまで拡大させることができた。

(2) 趙ジュンフン会長の生長

米軍軍需物資輸送用役、さらにヴェトナム戦争
 停戦協定が結ばれたとはいえ、世情は決して安定した訳ではなかった。彼は乱れた社会情勢であれば、それだけに「信用」が大事と考え、それを積むための努力をおしまなかった。
 いま一つ、彼が重視したのは、会社の車輌の整備管理であった。「運送業は整備が基本です。わが韓進商社は日ごろ整備を徹底して、あらゆる準備を完全にしておかねばなりません。」彼がいつも強調している言葉である。
 こうして厚い信用と徹底した車輌管理によって事業は成長して行った。
 趙会長は米8軍輸送担当官と接触するため多くの努力を払った。おくすることなく堂々と、しかも会食の機会を作れば、彼らに最高の待遇をすることにより、次第に好意的な反応を受けることになった。こうして彼は米軍から輸送契約を結ぶことができた。それは韓進商社成立以来のもっとも大きな契約であった。
 趙会長は、さらに破格の条件を提示したのである。「韓進商社は米軍需品を責任制輸送として引き受けます。輸送中に発生した事故に対して、いかなる理由であっても当社が弁償いたします。」
 契約金額は7万ドルであった。当時、韓国1人当の所得が100ドル以下であった時、それは大きな金額であった。人が不可能だとする時、彼は不可能に挑戦する道を選んだのである。
 これより韓進商事は、さらに発展の道を歩み始めた。自社の車輌で物量を消化できず、他社の車輌に依頼することもあり、それが起こした事故についても、当然のように責任を負い、米軍担当官のさらなる信頼を得ることになった。
 「ミスター趙!次の契約金額は十万ドルとしましょう」韓進商社は、名実共に米軍部隊の重要な活動部分に生まれ変わったのである。間もなく韓進商社は株式会社となり、経済の中心がソウルに移行する時期に当たり、韓進商社も仁川からソウルに会社を移して、本格的な企業活動を開始するのである。
 韓進商社は米軍との輸送契約により毎年300%以上の売上を上げ、これによって会社発足3年目に当たる1960年には、年間外貨のみで220万ドルの収入を得たという。1960年、韓国の総輸出額が3280万ドルであったから、その6.7%に当たる訳である。また陸上輸送車は500台以上となるなど、驚くべき成長をとげたのである。

 さらにヴェトナム戦争は、韓進にとって最高の機会となった。彼は度はずれた手腕を発揮して1966年5月より年間725万ドルで米軍需品輸送用役を行う条件の契約を結び、1967年には3400万ドルの再契約、1968年にも同額水準の再契約を結んだという。
 そして1966~71年までの5年間に、ヴェトナムにおいてのみ総1億5000万ドルの収入を上げた。これは当時の韓国銀行の運営外貨総額が数千万ドルであったというから、米軍によるヴェトナム戦争が、韓進グループ発展の大きな機会を与えたといえるのである。

(3) 大韓航空公社の引き受け

 わが国最初の航空社は1948年10月1日、慎鏞頊(シンヨンウク)が民間資本により設立した大韓国民航空社(KNA)であったが、1958年KNA旅客機一台が北に拉致されることにより財政損失をうけ、営業不振がつづき、また第4代民議院選挙にも落選した慎ヨンウクは自殺に追い込まれた。
 当時、軍事政権はKNAの営業中止による空白を埋めるため、急いで大韓航空公社(KAL)を、1962年4月30日、公称資本5億ウォン、払い込み資本2億54万ウォンの国営企業として設立された。しかし航空輸送の需要が伸びず、政府が払い込みをする資本払込みまでも遅れて航空機投入計画に蹉踬が生まれ、保有機の老朽化による故障や延着がしばしば生じ、利用客の信頼を失っていた。
 KALの赤字が増加するや1968年6月、朴正煕政権は民営化をはかり趙会長はこれに注目していたが何度も社員の反対にあいながら、ついに三度にわたる朴正煕大統領の説得に拒絶できず負債23億4000万ウォンの全額を負担しながら14億5300万ウォンで引き受けることになった。その条件として5年の据え置き(無利子)、10年分割償還(延利12%、当時の物価上昇率15%)という有利な条件であった。こうして大韓航空が出発することになった。これによって韓進は10大財閥に進入することになった。
 その時、大韓航空は国内路線と共に国際線もあったが、それは日本を往来するいくつかの路線のみであって、東南アジアへの路線も設定されていたが、収入の見込みがないため休航となっており、つまり国際線はないと同然であった。外資獲得は日本への路線による若干の収入のみであった。しかし趙会長は未来に対して深く悩み、かつ深く研究していた。
 国際線はどうしても必要な路線であろう。趙会長はある日、突然こう切り出した。
「わが社もあれを持とうではないか」
「えっ、何のことでしょう」
「ジャンボ機だよ。わが社もいつまでも子供のあんよだけでは困るだろ」
「ジャンボ機2台を導入するためには、どの程度の金が必要だろうか」
「7000万ドル程度の資金が必要のようです」
「フム、7000万ドルか。ヴェトナムで稼いだ金の半分を注ぎ込む必要があるか。それでも推進せねばなるまい。」
 彼はボーイング747機の購入を決定し、1972年、米国ボーイング社と正式に購入契約を行った。ジャンボボーイング747機が初めて飛行場に姿を現した時、人びとは始めてみるジャンボ機の偉容に驚きの目をみたった。こうして大韓航空は国内最高の航空社として、少しずつ成長をつづけるのである。

(4) 財閥化の歩み

①高速バス事業へ参与
 韓国では1960年代に入り、全国の幹線道路の整備が始まっていた。(1970年7月、京釜航速道路開通) 韓進商社は、1961年、米戦略空軍司令部のバス80台を割賦による支払いにより払下げを受け、1964年、大韓運輸を設立してバス旅客運送業に進出した。

 全国に航速道路が整備されるにつれ、高速バス業は隆盛をきわめ、大韓運輸は多くの収入をあげ、1970年代以降は国内最大の高速バス会社となった。

②浦項製鉄所の港湾荷役作業の契約
 1968年、日本の新日鉄の全面的な支援のもとに浦項製鉄所の建設が進められ、韓進はこの製鉄所の莫大な建設資材の運搬および荷役と関連する作業を殆ど独占するかのように行い、多くの収入を獲得した。これは、さらに大きな同社の製鉄所建設(光陽製鉄所建設)に引き継がれて行くであろう。

③「ハンイル開発」の設立
 1968年8月、韓進グループ本社社屋である海運センタービルを建設し、グループ内の各種建物の工事を請負い技術を蓄積して、海外の建設事業にも努め、主要な企業の一つとして成長していった。

④大韓航空に関連する付帯事業に進出
 国内空港で航空機の機上助業や付帯事業を目的として、1968年「韓国空港」を設立したが、これを契機にして航空輸送分野の付加価値を高め、本体を増加させる機会を持つことができた。

⑤育英事業に進出
 1968年に仁荷大学校を引き受け、それ以降、韓国航空大学校を傘下に組み入れて、教育部門に韓進は多面的に進出して行った。

 こうして、1972年には韓進はサムソン、LGにつづき財閥順位を3位に登る位に、きわめて大きな成長をとげたのである。
(2000年5位、2010年9位)

(5)「韓進海運」の設立

 陸の道と空路を開拓してきた趙重勲は、1966年ヴェトナムの港で、コンテナを満載した米軍貨物船がクレーンによって荷揚げする効率の良さに驚き、このような海上運送こそ未来の仕事なのだと考えたことがあった。
 しかし、その当時はわが国にはクレーンを備えたコンテナ専用船もなく、また仁川港には大きな船が接岸することも出来なかった。
 1967年、彼は一度、海運業を始めたことがあったが、悪条件が重なり、一時中断を余儀なくされたのである。
 その頃、干満の差が烈しく大きな船の接岸が不可能な仁川湊に関門式ドック(enclosed dock)の施設を作ろうという政府案が提起され、韓進にも投資に参与してくれと話があり、これによろこんで可なりの投資を行った。他の企業も積極的に参加して、1974年埠頭工事が完了したのであった。
 1970年代は、政府の輸出強化政策によって国内交易の拡大と輸出入量の急増により、国際海運のための定期航路開設とコンテナ化による海上運送が要求され、海運船舶の改善、技術革新による国際競争に備え、苦闘がつづけられていた。
 1974年5月、こうした環境の中で「韓進海運」設立され、1978年には韓国と中東間にコンテナ専用船が就航することになり、1979年には千隻のコンテナ専用船が極東―北米間の航路に就くことになった。
 また1986年には国内最大のコンテナ専用船である韓進ニューヨーク号を航路空白地帯であった北米東海岸へ就航させたのである。
 1987年には、成績不振であった国内最長の歴史とノーハウを持つ大韓商船の併合をはたし、これによって韓進海運は名実共に国内最大の海運会社となった。
 これらの成功によって韓進グループは財界順位8位となった。
 韓進グループは、陸、海、空の路を連結することによって国の貿易に大きく寄与したし、国内の企業が生産した製品を輸送して、国民と諸国人を結びつけた役割は、誠に大きいものがあると認めねばならない。

(6) エピローグ ─ いさぎよい退任

 「わたしは寝る時間の外は、一時も会社の仕事を忘れたことがない」と言いながら企業の発展に一生を捧げて来た趙ジュンフンであったが、いつしか76才となっていた。「企業家には停年はない」と引きつづき自己の活動に熱情を注いでいた。
 ところが突然1999年4月15日、大韓航空機が上海空港で墜落事故を起こし、さらに間もなく貨物機の墜落事故が伝えられた。
 趙会長はこれを深刻に考え、被害の処理と保証を十分行うことを指示しながら、責任者として潔く退任する決意をし、後任を長男のチョヤン趙亮 ホ鎬にまかせることにした。彼の兄弟は4男1女、それぞれ企業の四つの主要な部分を世襲させることになった。趙会長の死後、財団の分化過程は進められた。
 彼にとって初めての静かな生活がつづいたが2002年11月17日、マスメディアは彼の死亡を伝え、その遺言として「1000億ウォンを公的財団に贈ること」が伝えられた。後にそれは輸送物流研究事業と教育事業の基金として使われることになったという。

(7) 付言―財閥に対する肯定と否定の見解

 私的企業団体である財閥が、一国の経済に大きな影響を及ぼす例は、世界に間々見られることであるが、韓国経済においては、それが可成大きなことが問題となる。
 戦前の日本の財閥は敗戦の結果、戦犯国として特殊な状況のもとで、一旦は解体されることになったが、その後はそれぞれ生長をつづけている。
 アメリカでは百年前から財閥が国家の経済に大きな影響を及ぼしていたが、相続過程を通じて所有と経営が分離して行き、専門経営人体制が確立して、家族中心に所有され経営された財閥の姿は失われて行ったのである。韓国は極度の血縁中心の社会とはいえ、緩やかな速度ではあろうが、アメリカ資本主義が歩んだ過程をたどって行くと思われる。
 さて、その過程の中で財閥の子孫も代を重ね、今は二世を父親として、三世が財閥を世襲している例が多く、肯定と否定のさまざまな議論をよび起こしている。
 まず、財閥に対する肯定的意見として要約されるのは、①高度成長の牽引車としてである。韓国経済において高度成長を保証するのは輸出と投資であるが、国内市場だけでは充分な需用を作り出すことができず、外国市場への進出と、そのための輸出主導戦略が必要であった。輸出と投資を主導して来たのは財閥であったのは、まぎれもない事実である。
 次に②産業高度化の先駆者。韓国経済は、農業から軽工業へ、そして重化学工業へと産業構造を変化させながら高度成長を達成して来たが、この進化過程において先駆者の役割を遂行した企業は財閥であった。
 財閥が産業構造を高度化するに当たって先導的役割をはたしたのだ。
 ③効率性の開拓者。企業は独占力を利用して販売価格を上げたり、効率性を増加させて生産費を下げ、更に高い利潤を確保することができる。したがって企業は独占力確保と効率性の向上のため絶えず努力する。とくに公的企業が惰性的に生産活動を行う傾向があるに反して、私的企業である財閥は効率性を高めるため絶えざる努力をして来たのである。
 ④企業家精神の模範。韓国財閥史においては、財閥創始者たちは企業家精神をだれもが重要視するのである。これは危険(risk)に対する挑戦と、その危険を克服し目的を達成する能力を意味する。韓国財閥の創始者たちは条件の劣悪な状況の中で事業の先頭に立ち、先の見えない事業に果敢に挑戦して財閥を築き、その業績を認められてきた。そして、その力の源泉として企業家精神が強調されて、世間もそれを認めているのである。

 次に、財閥に対する否定的意見を見ることにしよう。

①経済力集中の深化
 財閥問題の核心は、財閥による過度の経済的集中である。これは大財閥が国家の経済に占める比重があまりにも高く、かれらがその力を乱用することができ、それにより市場経済が健全に作用できなくなるという本質的な問題である。市場は力の分散を前提としており、分散した力の利己的行動が互いの調和を保ち、市場参加者に等しく、均衡のある市場経済の恵みを分配する目標を達成しようとするのである。
 しかし、財閥の市場の独占が過大になれば、経済は健全に作用できず、市場活動の成果も公平に分配できなくなる。これは、韓国の財閥中心の経済体制が持つ根本問題となるのだ。

②独寡占の深化
 財閥は多くの系列企業を従えており、系列企業の多くは自己の市場で独寡占的地位を確保しているし、その地位をさらに強化しようとする。このような企業は商品市場では販売者として独寡占的地位をさらに強化するであろう。そして原料、部品、資本、労働力などの生産要素市場では購買者として独寡占的地位を確保している。したがって商品市場では高価で販売することができ、労働市場および資本市場では低賃金でかつ低利で労働力と資本の供給を受けることができ、原料や部品市場では極めて低い価格で入手できることになる。このような独寡占的な地位が財閥を成立させ、その勢いを拡大する主要な源泉であった。
 財閥が独寡占的地位により多くの恩恵を受ければ、国民はそれだけ被害を受けざるを得ないのである。さらに部品とか原料を供給する中小下請業者たちも安く買いたたかれる納品価格により被害を受けるのだ。

③皇帝経営と経営権の世襲
 皇帝式経営とは、会長(総帥)の私意に基づく経営の不透明性の問題である。それは専門家の牽制を受けることのない経営権の乱用を意味する。このような状況の中では、会長は公的な会社より私益を優先する経営に走りがちである。そして会社の資材を私的に転用することも躊躇ためらわない。小額株主の利益を無視して、会長とその家族の利益のために、たとえ法に背くことでも実行されるのだ。このため殆どすべての財閥では、非資金(裏金)事件が起き、起訴される事件がひんぱつするのだ。
 皇帝経営が可能なのは、会長が大株主の持分を確保し、その地位を世襲させているためである。そしてそれは韓国的企業文化によるのだ。韓国では、いかなる組織であっても最高権力者にへつらう分化が行き渡っており、したがって専門経営人の立場がなくなる。
 経営の家族化と世襲経営も皇帝経営の一形態である。財閥の会長はあらゆる手段を動員して所有の持分を継承させ、経営権を世襲させる。会長の家族は不法または便法的な手段を動員しても、大株主の地位を継続させ、経営権を世襲させるのだ。
 これが財閥式経営の本質なのである。

④経営透明性の問題
 韓国財閥のしつ(こり固まった悪い癖)の一つは、粉飾会計と裏金の問題である。裏金を作るために粉飾会計が必要となる。これは経営の不透明性によるものである。これはまた会長の皇帝経営によるものでもある。財閥企業には会長の勝手な経営権を牽制する手立てがない。たとえ、それがあっても作動しないのである。会長に無条件に忠誠をつくす後進的企業文化が原因である。
 また裏金が権力者の買収や、さまざまな私利のために活用されることは、よく世間の知るところである。

⑤労資の葛藤と分配の歪曲
 財閥における労資関係は、1987年の民主化以前には、労働組合が禁止されていた条件の下で、正常なものと言えない状況であった。そして1987年後も、財閥は労働活動を認めることにけち臭(吝嗇)かった。このため過激な労資間のふんきゅうが絶え間なく起こり、国家の経済に大きな損失をもたらし、労資紛糾は極限状況にまで至るのであった。
 1989年の「現代重工業」の労働組合のスト闘争は労働者家族、市民、警察が市街戦を展開する状況となり、軍隊さえ動員されて強制解散される局面に至った。「現代自動車」は1987年、労組結成以来20余年間、例年行事としてストが行われた。その外の財閥も大小の闘争的労資関係が持続したのである。
 労資関係は所得分配に直結している。労働所得と資本所得の比率が所得分配のバロメーターであるが、労資関係の状況によって、この比率は大きく変動する。
 したがって財閥は労資の葛藤を解消し、分配の歪曲を正常化する重要な責任を負わねばならない。
 財閥の労資関係と、彼らによる土地をはじめとする不動産投機は、わが国の所得分配と富の分配に否定的に作用したとされている。すなわち公平な分配に逆行するものであった。この結果、韓国社会は民衆の貧困が構造化される階級的社会となったという主張さえ提起されているのである。

参考文献
「내가 걸어온 길」趙重勲.나남.1996
「조중훈 처럼」고수정.FKI미디어.2013
「아! 대한민국,재벌공화국」이동연.2012
「韓国財閥史研究」최정표. 해남.2014

 

1973年9月21日、箱根の富士屋ホテル。その1室に、日韓政財界の超大物3人が顔を揃えた。日本側からは時の首相・田中角栄と、その“刎頚の友”と言われた政商・小佐野賢治(国際興業グループ創業者)。そして大韓航空を擁する韓国の有力財閥・韓進(ハンジン)グループ総帥の趙重勲(チョ・ジュンフン)である。

 

【筆者紹介】
1953年 名古屋大学文学哲学科卒業 60年、同校大学院終了。
1961年から朝鮮大学校で哲学、朝鮮哲学史、朝鮮文化史を担当。
朝鮮民主主義人民共和国 教授、哲学博士
現在、国際高麗学会知事。韓国実学学会・名誉会長
この間大阪経済法科大学、立教大学、津田塾大学、東京都立短大などの講師を歴任。
著書に、『朝鮮文化小史』(太平出版)、『朝鮮近代の開拓者』(朝鮮青年社)などがある。

「科学と未来」第16号に掲載

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