エッセイ 第16回

エッセイ 第16回

トヨタ自動車の決断

ソフトサーボシステムズ株式会社
梁富好(ヤンブホ)

 毎年4月にドイツのニーダーザクセン州ハノーバーで開催される「ハノーバーメッセ」は、世界最大の産業見本市だ。工業オートメーションやエネルギー、精密機械、制御機器、電機メーカ等、世界中の大手メーカが一同に会し、最新の産業技術や製品を出展する。毎年世界100カ国・地域から5000社が出展し、訪問者数は20万人にも達する。しかもそのうち5万人がアメリカや中国を筆頭とするドイツ国外からの訪問客だ。産業技術の専門展示会としては、とてつもなく大規模な国際見本市である。

 今年の4月のハノーバーメッセでは、第4次産業革命とも称されるドイツ発のIndustry 4.0(インダストリー4.0)関連技術やアメリカ発のIoT(Internet of Things=モノのインターネット)関連技術の出展が相次いだこともあり、例年以上の賑わいであった。オープニングセレモニーでは米国オバマ大統領も出席し、セレモニーのあとドイツのメルケル首相と一緒に会場を視察し、ものづくり業界での次世代技術や標準化をリードする両国の親密ぶりをアピールした。

 しかし、今年のハノーバーメッセの主人公は、オバマ大統領でもメルケル首相でもなく、最新技術や製品を出展した5000社のどの企業でもない。世界中のものづくり業界に激震を走らせたのは、4月26日に現地で記者会見を開いたトヨタ自動車である。

 トヨタ自動車は記者会見で、同社の工場内で使用する産業用ネットワークとして、「EtherCAT」(イーサーキャット)を全面的に採用すると発表した。EtherCATとは、ドイツの制御機器メーカである「ベッコフ」という中規模メーカが開発した制御機器向けフィールドネットワーク向け通信規格で、パソコン等で用いる一般的なEthernet(イーサーネット=パソコンのLANケーブル)をベースにしたオープンなネットワークだ。ではなぜトヨタがEtherCATを採用することが、日本国内の多くの産業機器メーカや産業装置メーカが腰を抜かすほどのビッグニュースなのか。これには少々専門的な説明が必要となる。

 今や第4次産業革命として脚光を浴びているインダストリー4.0というのは、一言で言えばERP等企業の基幹システムや製造管理システム、現場でのFA機器がすべてつながった工場のあり方だ。そこで相関データをとって分析し、工場と経営の全体最適化、効率化を図れるようにするのが目的だ。インダストリー4.0を実現するには、IoT技術を用いて工場内のあらゆるFA機器やセンサーをネットワーク化し一元管理する必要がある。

 自動車産業や半導体産業、スマホ、テレビ等のデジタル家電産業の製造現場では、産業ロボットや工作機、半導体製造装置等、様々な産業装置が稼働しているが、それらの機械を制御・管理する制御機器やセンサー等は制御機器メーカ各社独自の専用配線やネットワークで接続されており、相互互換性がなく、インダストリー4.0が目指す「つながる工場」には程遠いのが現状だ。実はドイツでインダストリー4.0が提唱される以前からも、三菱電機や安川電機、ドイツのシーメンスや米国ロックウェル等、世界最大手FA機器メーカからは「オープンなフィールドネットワーク」と称し様々なネットワーク規格が提案されてきた。しかし実態はオープンとは程遠く、各社とも自社製品の普及を目的とするための独自ネットワークであり、他社製品との相互接続は不可となっており、各社のネットワーク規格のシェア争いが激しくなっていた。特にドイツが推し進めているインダストリー4.0政策では、このネットワーク規格を策定、選択し、標準化し世界共通にすることが目玉政策となっており、ここ数年は各社がそれぞれの国の支援を受けて激しいシェア争いを繰り広げてきた。

 そのような状況の中で、世界最大の製造業者と言えるトヨタ自動車が自社工場内のフィールドネットワークとして、三菱電機や安川電機等、国内大手FA機器メーカのネットワークではなく、ドイツの中堅FA機器メーカが規格しているEtherCATを採用することを発表したのである。これは世界の大手FA機器メーカだけでなく、その機器を用いて産業ロボットや各種産業装置を製造する世界中の装置メーカにとっても、さらにそれらの装置メーカを支援してきた各国政府にとって大きな衝撃となった。特に日本が世界に誇るトヨタ自動車が、世界トップシェアを誇る国内のFA機器メーカが提供するネットワークではなく、他国のネットワーク規格を採用したということで、国内メーカのみならず日本政府も少なからずショックを受けたはずだ。

 トヨタは以前から、「カイゼン」、「見える化」などの言葉に代表されるトヨタ生産方式においてもIoT技術を積極的に活用し、ビッグデータから生産性向上のための現場マネージメントを支援する仕組みを作り上げてきた。ビッグデータの収集には、生産現場の情報やデータをすくい上げる必要があり、以前から様々なFA機器ネットワーク規格を検討してきた。

 トヨタとしては、各大手FA機器メーカに依存する専用ネットワークよりも、よりオープンでより多くのFA機器製品が採用しているデファクトスタンダードなネットワークを求めていた。また制御機器も、ブラックボックスのハードウエア製品としての機器ではなく、よりオープンなパソコンを用いた制御機器の方が、データの収集や基幹ネットワークとの接続、データ分析等がより容易であると考えていた。

 トヨタには、トヨタの自動車工場で稼働する産業ロボットや工作機、各種産業装置のメーカ(サプライヤー)が数百社以上群がっている。これらの産業装置メーカは、三菱電機や安川電機、ファナック等、日本を代表するFA機器メーカの制御機器やセンサーを用いて産業装置を組み立てている。これらのFA機器は、一つ一つの製品を見れば非常に高価でありながらも高性能、高機能で、日本が得意とする高度なハードウエア技術、高度な通信技術に基づいている。しかし、今回のトヨタの決断により、トヨタのサプライヤーたちは否応なくオープンでパソコンベースのEtherCATに対応したFA機器を用いる必要があり、国内大手のFA機器メーカは、長年培ってきたハードウエア技術、通信技術を捨ててEtherCATに対応するか、または数百以上のトヨタサプライヤーの顧客を失うかになる。

 それだけではない。現在トヨタがEtherCATを工場内ネットワークとして採用されたということで、トヨタ以外の自動車メーカだけでなく、半導体産業、デジタル家電産業等を含めて、多くの産業界で産業横断的にEtherCATの採用検討が始まっている。つまり、このEtherCATこそがインダストリー4.0のデファクトスタンダードになるのではないかという予想を立て、または危機感を持ち、多くの装置メーカがEtherCATの採用を検討している。後述するが、すでにサムスン電子やアップル、台湾の台湾鴻海精密工業社(ホンハイ)、中国の華為技術(ファーウェイ)ではすでにEtherCATの採用が始まっている。つまり、FA機器メーカにとれば、対応を誤ればこれらの世界的な製造業の客をことごとく失う可能性も出てきた。

 これは以前、アップルのiOSやグーグルのアンドロイドOSの登場により、従来の携帯電話(ガラケー)からスマホに消費者のニーズが一気に移り、当時の日本の携帯電話メーカが全滅していった状況に似ている。スマホ以前の携帯電話業界では、米国のモトローラやフィンランドのノキア、そして日本の家電メーカのように、ハードウエア技術に優れたメーカが世界市場を席巻していた。これらのハードウエア技術は一朝一夕で身につくものではなく、日米欧の伝統と歴史のあるハードウエアメーカのみ高度な携帯電話を市場に提供していた。

 しかし、各種アプリをダウンロードすることで様々な機能の実現が可能になったスマホでは、ハードウエア技術よりもソフトウエア技術がより重要になり、日立やパナソニック、シャープ、ソニー等の日の丸家電メーカはその存在感を失っていった。一般に公開され無償で使えるアンドロイドOSさえ使えば、特殊なハードウエア技術を持たなくても一夜にしてスマホメーカになれる。実際中国では、毎年新しいスマホメーカが現れ短期間で世界トップメーカに躍り出ている。

 インターネットやソフトウエア技術が進歩していくなかで、ハードウエア中心からソフトウエア中心へと時代が移っている。それは何もIT業界だけでなく製造業にでも顕著になってきた。インダストリー4.0に代表される最近の製造業での変化は、ソフトウエア業界やIT業界による、古くて保守的でハードウエア技術に依存してきた製造業への「侵略」とも考えられる。特に日本の製造業を支えてきた国内大手FA機器メーカや産業ロボットメーカ、各種産業装置メーカがソフトウエア化の大波に乗り切れず、むしろ防波堤を打ちたて抗おうとしていた。その防波堤を一気に砕いたのが今回のトヨタの決断である。

 今後製造業ではソフトウエア技術が重要になってくるのは言うまでもない。特にFA機器メーカや各種産業装置メーカは、ハードとしてはオープンなパソコン等を使い、ソフトウエアによって機械制御やネットワーク通信を行うシステムを開発していく必要がある。ただ、ソフトウエア技術に依存するということは、今まで自社の技術や製品(主にハードウエア)を否定することになり、今まで顧客を裏切ることにつながるかもしれない。そのようなレガシーがあるので、大手であればあるほど、すぐには切り替えられないものだ。それはまさしく、ガラケーメーカがスマホへの変換の経営決断が大幅に遅れてしまい衰退していく過程と酷似している。

 さらに、たとえソフトウエア技術中心へと経営決断しても、ソフトウエア技術も一朝一夕で身につくものではない。たとえば、世界最大のIT企業であるサムスン電子でも、近年はハードウエアからソフトウエアへの転換を最重要課題として、韓国中のソフトウエア人材を集めている。我が社の韓国法人でも常にソフトウエア人材を募集しているが、一向に求人にひっかからない。韓国のソフトウエア人材はすべてサムスン電子が吸収しているのではないかと思うぐらいだ。実際、現在のサムスン電子では3万2000人のソフトウエア人材を抱えている。これはインターネット業界世界トップのグーグルの2万3000人よりも多く、フェイスブックよりもはるかに多い。しかし、最近サムスン電子が自社のソフトウエア人材の実力を独自検証したところ、グーグルの入社試験を受けたとすれば合格できるのは1−2%のみだと判明した。散々たる水準だ。

 言うまでもなく、ソフトウエアというのは量ではなく質が重要だ。我が社も自慢になってしまうが、ソフトウエア人材は大手FA機器メーカに比べるとはるかに少ないが、彼らが絶対に真似できないソフトウエア製品を開発しトヨタを始め世界中の製造業に採用されている。

 今回のトヨタの決断は、インダストリー4.0やIoTというのは単なるスローガンや掛け声と高をくくっていた製造業のFA機器メーカや産業装置メーカに対し、ハードウエアからソフトウエア技術への早期の転換が会社の存続にかかわるというリアリティを提示することになり、今は慌てているに違いない。この業界に長年携わってきた私からすると、それは遅すぎる感がある。

 このエッセイでは毎年のように紹介させてもらっているが、我が社では1998年のマサチューセッツ工科大学での創業以来、ずっとオープンなパソコンだけで産業装置の制御が可能とするソフトウエアコントローラという技術を開発してきた。2004年には特許を取得し、2008年には今回トヨタが採用したことで有名になったEtherCAT技術を独自に開発し、パソコンとLANケーブルだけで複雑な半導体製造装置や産業ロボットを制御できる製品を開発していた。しかし当初はまだまだ製造業ではソフトウエア技術への理解や信頼が欠如しており、なかなか大手装置メーカには採用してもらえなかった。しかし、トヨタの決断よりもはるか前の2012年には、サムスン電子半導体事業部が今後サムスン電子半導体工場に導入される半導体製造装置はすべてEtherCAT対応装置に変更していくという発表を行い、世界中の半導体製造装置メーカが慌ててEtherCAT技術を検討し始めた。そのなかで、韓国最大の半導体製造装置メーカでありサムスン電子の中核企業であるSEMESというメーカが、2014年に我が社の技術の採用を決め、今では韓国水原や中国西安にあるサムスン電子半導体工場で我が社の技術が搭載された半導体製造装置が多く稼働している。

 アップル社も数年前にはEtherCAT採用を決めており、アップルにスマホ製造装置を提供している多くの中国装置メーカが我が社の技術を搭載した装置をアップルに提供している。今年の初めには、中国最大のスマホ及び通信機器メーカである華為技術(ファーウェイ)や、シャープを買収して一躍有名になった世界最大のEMS(受託生産)企業である鴻海(ホンハイ)もEtherCAT採用を検討し、我が社製品を始めとするソフトウエア技術を評価し始めている。つまり、トヨタ自動車の発表以前でも、すでにサムスン電子、アップル、華為技術や鴻海でもEtherCATやソフトウエア制御技術の採用は始まっていたのだ。しかし、日本のFA機器メーカはそれなりの危機感を持ちながらも、日本国内の製造業がまだまだ旧態依然とした国内仕様のハードウエア技術に依存していることもあり、安心していたように思える。その安心の拠り所を粉砕したのが今回のトヨタの決断と言える。

 このトヨタの決断により、今後FA業界や製造業での勢力図は変わっていくかもしれない。IT業界のアップルやグーグルが携帯電話メーカを駆逐したように、インダストリー4.0政策を背景にIT業界やソフトウエア業界による製造業への「侵略」もより加速するであろう。我が社はもともとこの巨大で保守的な製造業のなかで、孤軍奮闘でソフトウエア技術を発信してきた小さな企業だ。IT業界からの侵略からではなく、製造業の中での自発的なソフトウエア革新を起こせる数少ない企業の一つだと自負している。第4次産業革命が着々と進み、混迷の色が強くなっている製造業でのシェア争いの中で、リーダーシップやキャスティングボードを握れる存在になれればと思い、日々邁進している。

プロフィール

1965年大阪生まれ。大阪朝鮮高級学校を中退後、大検を経て1984年京都大学工学部数理工学科に入学。同学科卒業後、米国マサチューセッツ工科大学(MIT)大学院機械工学科に留学し、1995年知能ロボットの研究で博士号を取得。その後、MIT情報技術研究センターの研究助教授(Research Scientist)に就任。1998年MITの同僚とともに、米国ボストン郊外でSoft Servo Systems, Inc.を設立。2002年に同社CEOに就任。2006年にソフトサーボシステムズ株式会社を東京にて設立し代表取締役に就任。2014年に韓国法人株式会社ソフトサーボコリア(現Soft Motions & Robotics Co.,Ltd )を設立し、代表理事に就任。現在に至る。

■ソフトサーボシステムズ株式会社
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「科学と未来」第17号に掲載

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